迷馬の隠れ家 はてな本館

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三類の強敵から察する、宗教に関する意識の話

日蓮仏法の教学を学ぶ上で欠かせないキーワードに、“三類の強敵”という概念がある。宗教を愚弄する者を指す言葉で、宗教全般に関して、無知や偏見が原因でトラブルになる事を予見して、しかもレベル付けしたのがコレである。具体的な解説は以前にも散々やってきたが、大まかに言えば“俗衆増上慢”“道門増上慢”“僭聖増上慢”というレベル(というか分類)がある。ただし、共通する認識としては、宗教…特に他宗派・外道に関して知識や面識がないのに批判してるのが一般的で、しかも個人レベルでのしょうもない理屈だけで批判してるのがオチである。ぶっちゃけ論で言えば、目の前の人間を信じず、他人から聞いた風評や噂を真に受けた上で、なんの検証もせずに情報を鵜呑みにした挙句、勝手に批判してるのが殆どである。ゆえに、無神論者と称してる人でも、教義に懐疑的なのか、単に情報に振り回されているだけなのかで、中身が全く“別物”と言える訳であって、前者の場合は、それゆえの“宗教論”を持っている反面、後者には宗教そのものに対する概念が殆ど無い。ゆえに、同じ宗教批判を行っていると言えど、その“中身”は、まるっきり違いすぎて話にならない。
ではなんで、この“三類の強敵”は存在するかと言えば、要は宗教はなんのためにあるのかという問いを明確にする“テスター”みたいな存在であり、批判する人自身の知性と概念が、殆どの場合、勝手な先入観と、当事者ではなく他者からの情報で判断してるからである。つまり、真実に目を向けずに、闇雲な批判を繰り返してるのが、“三類の強敵”に該当する人達の“特徴”と言っていい。それでは、なんでこんなことになるのか?
基本的な事を言えば、発言に対する責任の有無が、そもそも論として存在し、その殆どが“他人のせい”であるという点に尽きる。つまり、俗衆の場合は“みんなが言ってるし…“とか、“著名な●●さんが…”という言い訳をし、道門の場合は“師匠が…”とか、“参考資料が…“という言い訳であり、そして僭聖の場合は“付き人が…”とか“家族が…”と、正直言えば、当事者以外の“誰か”が言ったから…を、言い訳にしてるのである。これ、例えとしてタイムリー&不謹慎ではあるが、保険金目当ての連続毒殺事件をやらかした京都の金欲女や、小学生を刃物で殺害しておきながら、“俺じゃねぇモンw”と太々しい態度を取っている輩と同じで、自分でやった事、考えた事への“責任”を、完全に“他人のせい”にして逃げようとする汚い根性が見え隠れしてる訳である。つまり、宗教を正式なカタチで学ぶ機会があって、それで最低限度の知識を持っているのであれば、相手が属する宗派に対して批判はすれども、存在までも否定することはあり得ない。なぜなら、五重相対の“内外相対”に照らし合わせた時、自分が信仰する宗派が本当に正しいのかどうはを知るには、他宗派からの意見や批判も必要な“吟味素材”としての価値があるからで、それがない状態でいくら自分の“正当性”を訴えたトコで、比較対象がない以上、正しく判断できる訳がない。逆を言えば、喧嘩をする“相手”がいない限り、自分の本当の“実力”を推し量ることはできないし、全く同じモノであれば、どれを使っても“同じ結果”になるのが普通であって、結果そのものに狂いが生じたり、勝負事が成立するのは、同じ“条件”であっても、人それぞれの個性があるからこそ生じる“答え”なのである。その“違い”を否定しておきながら、自分の意に介さない結果を勝手に“不正だ”と言ってる時点で、もはや話にならない訳である。
自分と相手の“違い”を認め、それぞれがその“違い”に対して尊重しあえる間柄であるのなら、どんな批判も、それは住んでる地域や環境の違いや、お互いの条件が“羨ましい”と思えるような状況だからこそ、それ相応の付き合いもできるが、相手を目の前にしておきながら、自分の五感を信用できずに他人の意見や感覚を参考にし、信じ込んでいる様では、それゆえの“歪み”を伴って、変な固定概念を自分自身に、あるいは他人に植え付けてしまう事になる。一番信用できるのは、自分自身が今までに経験した事と同時に、現在進行形での体験である。情報はあくまで、体験するまでの“予習用参考資料”であって、完璧な“答え”ではない。それがわからない様であれば、これからもメディアがつく嘘に振り回された挙句、望まない“差別活動”に手を染める事を意味する。重要な事は、他人の目や批判を気にするよりも、自分が率直に思う感覚に対して、自分自身が“責任”を持つことである。自分が選んだ“選択肢”が、たとえ自身が不幸になる可能性があったとしても、その“責任”の所在は、常に自分自身の胸中にあると認識することこそ、各種の差別的言動を抑える一つの鍵なのです。