迷馬の隠れ家 はてな本館

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宗教、ナメとんか?! 歪んだ正義とは(2)

人気女優の“突然の引退”に、某宗教団体が関与してるというニュースが飛び交ってるんで、便乗してこの話題をやっておこうかと思う。ま、件の宗教団体に関してざっくりと学会員目線で説明すっと、これの“教祖”自身、元々は徳島の学会員だったんだが、世間の誹謗中傷に耐えきれず、しかも勝手に学会の指導者批判を繰り返した挙句に飛び出して、作っちゃったのがコレである。で、兎にも角にも宗教団体としての“布教の手順”を踏まずに、なんだかんだ言って創価学会の“劣化コピー”を繰り返してるからタチが悪い訳で、ゆえに急成長してる反面、誤解を受けやすいトコがある。その中の一つが、“守護霊とのコンタクト”ってヤツ。悪いが、俗にいう“守護霊”とかの類ってのは、日蓮仏法上では諸天善神という概念にあたるのだが、コレそのものは“見える”のではなく、様々な要因が重なって作用する現象や結果に対する比喩であって、いるとかそういうモンじゃない…強いて言うなら、先人達の善行や所作を真似たり、参考にしてるうちに、その想いと合致して結果に結びつくから、先人への感謝の気持ちを示すために具体的な姿を描きやすくするためのモノでしかない。(ま、オイラの場合だと、それがマーティ達の存在だったりする訳なんだがw)
脱線ついでに、こういった“降霊”とか“交霊”というカルトな所作ってのは、一定の条件が存在してて、それは、術者(イタコやシャーマン、エクソシストなど)自身が想像できるモノ以外は“使えない”ってことであり、そのために、遺族や関係者に対して具体的なイメージができるためのヒント(生年月日や趣味などの個人情報)を先に提示するように求める訳である。だから、“呼びたい相手”が著名人であればあるほど、素人…というより、宗教に関する知識がちょっとでもあれば、簡単に“できる”訳であるw(逆をいえば、それ相応の想像力や観察力がないと、“生前さん”の模写をするのも難しい…)要は、同人作家並みの表現力や想像力、観察力と、宗教哲学がきちんと紐付けできるだけの頭脳がなければ、話にならないのがこういうのの“正体”であり、現実逃避の“成れの果て”な所作と言っていいw
それを“宗教”としてやっちゃってるからこそ叩かれるのであり、俗世が穢れている事を“理由”に施設に籠ったり、あるいは他人の信仰を否定した挙句破壊する行為は、余計に世間から“なんでやねん”とツッコまれる。宗教の本質は、どこまでも“開かれたモノ”であり、ありとあらゆる立場の存在にも“正義”は存在し、それを互いに共有し合うために精進することが是である。だから、キリスト教であっても、イスラム教であっても、本来なら“来る者拒まず去る者追わず”が“原則”である。(で、聖書やコーランの教えの中にも、実は随法毘尼の概念があるのだが…大概はなぜか無視されるw)そこんトコは、日本の既存宗教団体なら同じで、ゆえに鉄道会社や旅行会社とタッグ組んで初詣や社殿仏閣ツアーが企画される訳であり、そこから一部の敬虔な信徒が足繁く通うようになれば、共に“WINWIN”な関係となる訳であるw以前にも解説したかとは思うが、東海道新幹線新富士駅は、日蓮正宗創価学会が現在のように分裂する(日顕のC作戦)以前に、総本山である大石寺参詣に訪れる信徒を受け入れるために作られた駅であって、現在は全盛期のような賑わいがなくなった代わりに、静岡県内での“通勤の足”として利用するケースが増えた駅である。同じような理屈で言えば、天理市近鉄&JR天理駅も、月イチの天理教例大祭に合わせて、信徒の団体利用を見越した駅の構造になっている。(特におちぼがえりとかの時期になると、普段ガラガラなのに激混みするからなぁw)
このように、“聖と俗”ってのは表裏一体であり、街の発展…特に社殿仏閣の門前町ってのは、信仰心厚い信徒が通い続けることによって賑わう訳であり、そこから俗世の情報を得た聖職者は、それぞれの世代や人物に合った教えを説いて、その“報酬”として、信徒からお布施(寄付)を受け取る訳である。で、社殿仏閣や敷地の整備に浄財を注ぎ込み、それで周囲の経済も潤うから発展する訳である。ココんトコを“否定”して宗教を騙るのであれば、まさに“邪宗”である。信徒といえども“人間”である以上は、下ネタに走ることもあるだろうし、欲に塗れてギャンブル三昧ってのは、よくある話であるw しかし、そういった“お楽しみ”まで禁じて信徒に清貧を強要する宗教団体は、正直言って人間をバカにし過ぎであると同時に、濁世だからこその救済を施すのが“宗教の使命”である事を忘れた、完全なる“悪”である。だから、本物の宗教には経済を回す力もあるし、芸事に対して寛容であるから、宗教に絡んだ芸術文化が存在する訳である。そこを否定した時点で、宗教に対して“無知”であることと同じなのである。故に、“歪んだ正義”の先にあるのは、濁世の嘆きではなく、自惚れでしかないのである。