迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

所詮レイシストは、“知のニート”ですw

よく、意識高い系とされる人々が“ムダをなくそう”と言って、いわゆる断捨離を推奨してる訳だが、断捨離の真意をわかった上で使ってるとは、到底思えないんでツッコミ入れると、自分の身の丈にあった行動に徹することを指してるのであって、単純にモノを捨てる行為とは限らない…特に、本当に捨てるべきモノとして釈尊が説いているのは、上辺の地位やヒエラルギー的な蟠りであり、時として知性に奢れた態度を戒めるために“二乗(声聞と縁覚…どちらも仏教における知性の地位)は成仏できない”と指導してる訳である。(しかも、釈尊に仕える側近とも言える十大弟子全員に対して、ガチで言い放ってますからw)その一番の理由が、自分の知性や正義感を“正しい”と意識するあまりに、周囲が見えなくなり、結局、民衆救済の活動をやってるつもりが、他人の不幸を嘲笑ったり、相手を見下す態度になって批判されるという事態になる訳である。だから、釈尊法華経の行とは一筋縄ではいかないと説いていると同時に、“正直捨方便”という言葉をもって、あらゆる識者に対して“人間に立ち返れ”と指導してる訳である。

あ、先に二乗について簡単に解説すると、十界論に基づいた範疇におけるモノに、六道と四聖があって、一般的によく知られている“六道輪廻”を解脱し、さらなる高みで修行する身を“四聖”として区分化してる訳で、声聞界は“声を聞く”事で様々な知識を得るという立場で、縁覚界は出逢いと別れの経験から悟りを開くとされる立場を指してます。(ちなみに菩薩界は、苦難に敢て挑戦し続ける存在であり、六道と三聖の行動すべてを一瞬で悟りへと導くのが仏界とされる立場…)

“正直捨方便”とは、仏法用語としての意味では“素直に方便(仮定や空想など)を捨てなさい”ということになる訳だが、本質的なことを言えば、今までの常識や概念に囚われずに、必要に応じて相手の言い分や地域的なモノを学べという意味でもある…つまり、風土や習慣をガン無視して“正法に帰依せよ”と叫んだトコで、誰が支持してくれるかって事でもあり、自分が今まで経験した、学んできた様々な知識やスキルは、時として“封印”して取り組む必要もあるって事である。逆を言えば、今までの経験だけでモノを話してる人がいて、それをさも“常識”とばかりに相手を見下す(場合によってはバカにする)態度で接してるのであれば、その時点で、その人の“本当の黎明さ”ってのが知れる訳であり、もっと言えば、どれだけの恥を世間に対して掻いているか自覚がないからこそ、相手をバカにして、得意分野における“第一人者”というつまらんプライドに囚われてる訳である。これが、“文化レイシスト”とか“意識高い系”な高学歴識者に多い事w

専門分野以外の事なんて、無知にも程があるほど“知らない”のに、周囲に担がれ、その知性と頭の回転の良さを自慢するあまりに、様々な分野に対する“学びの姿勢”を忘れ、その傲慢さから不評を買うことになっても、それを“他人のせい”にしてる以上は、釈尊の言葉通り、救いがありません…当人だけでなく、その周囲の関係者もです。なぜなら、好奇心や探究心を放棄し、自己満足に終始してる以上は、人間としての成長がないからです。

よく、同じ趣味の人が、自分の好みを一部の人にバカにされてカチンとくる話がSNSで散見されるけど、批判してる人の多くは、自分の価値観や評価こそが“最高点”なのですw 本当に自分がやりたいこと、さらなる知識を深めたいという欲求に対して、素直な人ほど世間から批判されがちですが、それは凡人の“単なる僻み”であり、臆病者の愚痴でしかありません。もっと言えば、本物のファンだと名乗る人ほど、そういう世界観に精通してると自慢する人ほど、実はそれしか取り柄がないのですw だから、自分が持つ“不変の価値観”のみで批判を繰り返すのであり、深き思考を持つことすらできなくなってるのです。更に言えば、時とともに変化してることが“わからない”のが意識高い系には多いのです…だって自分こそが“知の王様”ですからw

その自惚れた態度や立ち振る舞いに対して、釈尊は“釘を刺す”言葉として“二乗成仏ならず”と弟子達に言い放ってる訳です。そこで理由も聞かずに反発したり、師匠の下を離れていたら、完全に釈尊の教えが、そこで途絶えてた可能性があった訳です…言葉の意味をいち早く気付き、自分自身を戒めることができたからこそ、今日までその教えは残った訳であり、弟子が“知のバカ”に堕ちずに済んだからこそ、仏法は様々な宗教に対して影響を与えたとも言われるのです。(旧約聖書の教えの一部は、法華経から影響を受けたとされる調査報告があるほどです…)

好きな分野に没頭するあまりに、陸続と“後継者”が現れる段階に入っているにも関わらず、自分自身が“そこにいたい”あまりに、新参者を毛嫌い、排斥しようとするなら、それは自分自身が独学で、あるいは様々な分野から賞賛されて築き上げた地位や名誉を、一瞬にしてゴミにするような行為であり、同じジャンルの趣味を持つ人までをも傷付ける行為でしかありません。様々な“楽しみ方”があり、そのきっかけも、人各々です。それが理解できずに批判するのであれば、同じだけ他人から批判されるのは当然の話です。それが許せないと思うのは、そういった批判そのものが屈辱だと感じてるからです。だけど、冷静に考えた時、その批判は本当に“的外れ”なモノであれば、必ず批判した人自身が恥を掻いて、そこから暴力を振るうでしょう…自分の価値観を絶対視するあまりに、頭がおかしくなってる以上、報われないだけですから。