迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

やっちまった…今年の“Shin’s Bar”シリーズ“休業”のお知らせ。

残念な報告なんだが…今年は“例の企画”に関しては、中止せざる得なくなった。というのも、Twitterでも呟いたが、ココんトコ右目の調子がおかしく、ついさっき斑鳩町内にある眼科で検査してもらったところ、糖尿病による合併症が出て、網膜の一部が出血した箇所のかさぶたに引っ張られるカタチで、網膜剥離寸前の状態だと宣告された…要は、吉田仙人よろしくなほど、失明寸前ってヤツ。左目もその兆候があるが、現時点ではそこまで深刻ではなく、だけど、内科での糖尿病も受診しろってことになり、おそらくだが、しばらく“入院”することになると思う。一応、インターネットをやるための道具(iPhone8とiPad Air2)は持ち込む予定だが、その間の更新は、おそらくTwitterのみになると思う…本来ならそろそろ、仕込みをやっときたいんだが、なんせ目が見えにくい&集中できないんで、しばらくは大阪市内某所の総合病院で“放牧”となります…w できれば、JBCまでに復帰できればと思ってるが、どうなることやら。さて、高額医療費制限の申請と、件の眼科からの紹介状を取りに、走りますか…ではでは。

パンに学ぶ“食の安全”にまつわる話。

時折巷に流れる、大手製パン会社の“危険なパン”にまつわる都市伝説…アレの類の“正体”ってのは、パン製品の多くが“カビない”事を根拠にしてる訳だが、その“理由”に防腐剤を大量に混入してるとしてるが、そもそもパン生地自身はイースト菌天然酵母の発酵によって作られるため、その段階での防腐剤添加なんて“不可能”であり、生地中に詰める具材も、一緒に焼く(or揚げる)モノに関しては、そもそもからして調理中に一度加熱処理したモノであり、大概のモノは使用するまで冷凍保存を行ってる…つまり、“なまもの”を使ってる訳ではない。したがって、防腐剤を使ってまでも消費期限を延長させてるというのは、消費者の恐怖心を煽るデマであって、本当に危ないのであれば、むしろホームベーカリーで作る方が危ない。それはなぜか?

その答えとして言えるのは、製パン工場の“衛生管理”を、家庭や手作りで勝負してるパン屋と比較した時に“全然違う”ってことに尽きる…つーのも、オープンキッチン形式で作るパン屋の方がむしろ“不衛生”としか言い様がない訳で、工場での大量生産は、焼成後にパッケージングまでの過程を“無菌状態”にできるのに対し、対面販売の手作り系は、陳列も含めて雑菌に対して商品が“無防備”なままで置かざる得ない訳である。つまり、“美味しいパン屋”のパンが常温で日持ちせずにカビが出たり、食中毒を起こすのは、防腐剤を使っていないのではなく、店舗が外気に触れやすく菌の混入や増殖を防ぎ切れないだけの話であって、製パン工場と同じだけの設備を持っているのであれば、結果としてはほぼ同じになる。

オイラの母方の祖父はパン職人だったからこそ言える話だが、小さな手作りパン屋ができる食中毒対策なんてのは、異物混入を防ぐことと、購入者に対して早めの消費を促すのが関の山であって、長期保存となると、小分けしてから冷凍庫に入れとけとしかアドバイスできない。それっくらい、実は製パン工場が導入してるクリーンパッケージシステムは、個人レベルでは大掛かり過ぎてコストに見合わない代物であり、大量生産をやる訳じゃない以上、邪魔でしかない。逆をいえば、工場で大量に、一括して製造するのであれば、異物混入の“原因”になり得る作業員(=人間)を、極力関わらせない様に作業手順や機械配置をやっておけば、基本、安全かつ安定した品質で作ることができる訳であり、焼成後に外気に触れない様密閉した“クリーンルーム”で袋詰めしたら、顧客が開封するまでは、理論上腐敗することはない。

さっきも言ったが、パン生地は“発酵”というプロセスを経ないと作れない訳であり、焼成後に防腐剤を塗るにしても、焼きたてに塗っても水分が蒸発してしまって定着しないし、冷めてから塗ったら、表面がカラカラな生地が水分を大量に吸収して食べれたモノにならない。つまり、その時点で“パン生地に防腐剤”ってのはあり得ない話であり、生地を作る段階での添加も、その成分が発酵の妨げになるが故に、生地が膨らまず、生麩の様なモノになってしまう。焼成しても膨らまないから、当然ながら南部煎餅や堅焼き煎餅よりも硬い、異質なものになる。つまり、“パン”とは言えない…てか“食品”としても怪しいモノに変質する。もちろん、蒸しパンの類でも、ベーキングパウダー添加や卵白をメレンゲ状にして生地を膨らませる方法ならイースト菌発酵は必要ないが、中華まん形式の生地は通常のパンと同じ様に、イースト菌発酵生地が使われる。仮に、防腐剤添加で日持ちさせるのであれば、イースト菌発酵が伴わない生地に限定される訳であり、それでも調理の最終段階で加熱処理が入るため、加熱温度が低いとともかく、高温調理の場合、ほぼ成分が蒸発して消えることになる。

故に、焼菓子や半生菓子(どら焼きなどの類)の場合、材料に防腐剤を混ぜるのではなく、個別パッケージに脱酸素剤や食品用除湿シート等を同封する訳であり、通常の食卓パンや菓子パンの場合は、焼成から出荷までの行程の内、袋詰めまでの段階は完全機械化(無菌室化)することで、商品に対する雑菌汚染を防いでる訳である。同じ様な話をするなら、個別包装されてる生餅も同じで、材料の餅米を蒸し器になってる機械に投入したら最後、包装までの全段階でオートメーションで作られる。だから、個別包装を開封しない限り、餅全体にカビや雑菌が増殖することなんてあり得ないのである。

フリマやコミケといった、野外や大多数の人員の出入りが激しいトコで、一般参加者による手作り菓子や軽食の販売を禁じてる理由も、実は食品衛生法に基づいた規制があって、企業ブースで販売されているモノに関して規制がないのは、衛生管理が成された工場での一括生産によって作ってるからこそであり、一般家庭の台所や飲食店の厨房で調理されたモノに関しては、そこまでの衛生管理下で作られたモノではないからこその“食中毒対策”での話である。デパートでの“実演販売”ってのも、会場となるデパートの催事スペース内での出店を条件に、衛生管理責任者の証明書を、当該自治体の保健所が出してくれるからできるのであって、それがないと、いくら腕のいい料理人が自慢の料理を振る舞いたくても、会場内で食中毒事故が起きれば、責任取るために主催者から“出店禁止”という処分となって跳ね返ることになる…こうなると、地元で営業してる店舗はたまったモンじゃない訳であり、ゆえに断るケースもあるのだ。“消費期限が短いから安全”というナチュラリストの概念は、食品衛生法を遵守する飲食店や食品加工会社から言わせれば、“食中毒ナメんな”な話なのです。

二律背反な話…平和維持と不戦の請願

正直に言えば、いかなる戦争も、その根幹にあるのは、“国”が“民”によって運営され、形成されている以上は、その生活の安寧と豊かさを保持し続けるために、様々な“施し”を“全体”に対して保証しなければいけないのであり、故に、国の体制によって、在住する民衆…国籍上現在地を“出身国”として国籍を得てる者全員が、何らかの“負担”を強いられるのは当然の話。しかし、隣接する“他国”にとっちゃ“知らんがな”な話であり、故に“異邦人”に対する取り扱いで齟齬が起きるのは日常茶飯事である…ここの部分で寛容過ぎる(てか、遠慮し過ぎ)てるのが日本の国家であり、国民性である。故に日本の領土であるハズの北方領土尖閣諸島竹島が、いつまで経っても隣国と揉める訳であり、交渉の席に着こうとしても、結局物別れに終わるのも、そういう訳である。

では“富める国”とは、何をもって“裕福”と言えるのか?様々な条件によってその価値観は違うが、“家族”という小単位で言えば、何もかもが“揃ってる”ことが基本条件となる…つまり、生老病死という自然の理に基づいたモノ以外は、いかなる理由であっても“不幸”な話であり、これが高齢者よりも先に子孫が亡くなるという事態になると、途端にその不幸度は倍増する訳である。親としての不注意で子供が事故死すると、高齢者(祖父母)としてはその“責任”を親…特に“母親”に対して全部なすりつけるケースが殆どであり、“父親”に対する責任が軽過ぎる訳であり、その“理由”を突き詰めると、男親側の祖父母としたら、“自分の子可愛い”の一点だけで物事を見る傾向があって、時間が経過してその“責任”が実は自分の倅自身にあったとなると、嫁に対してぶち撒けてた憤懣を、丸々自分の息子に…いや、むしろその数倍の破壊力を持って罵る訳である。これを規模拡大して政治にまで発展させると、何らかの“不祥事”があると、その“原因”が為政者よりも“自分自身”にあるという自覚がないまま民衆は暴言を吐く訳であり、仮に結果オーライな状況であっても、重箱の隅を突付いてイチャモンをつける訳である。言い方変えると、社会保障に十分な国庫資産、時間通りに使える公共交通機関、安全な飲料水と安定した供給ができるエネルギー資源等が“全部ある”ことが当然な状態が続くと、いつしかそれらのうちの一つでも維持できなくなった時点で、様々な“文句”が民衆から湧き上がる訳である。原発にしろ、移民政策にしろ、防災のための治水にしろ、“完璧な答え”など存在しないのに、民衆はそれを求める訳である…それゆえの“不具合”が発生した途端、多くの民衆は“民の声”に応じようと活動している為政者を批判する訳である。

で、その“民の声”の中には、為政者が“応じてはいけないモノ”も含まれている訳で、税金や法律の見直し等、国家運営に関わる重要案件で、冷静に考えるとマズいモノも大量に含まれている。しかし、これを一つ一つ民衆に対して“丁寧”に説明したトコで、それをキチンと理解できる人は、1割もいない…自分の“生きるため”に集中するあまり、周囲を見渡す時間すらないのだ。だから、国鉄の分割民営化によって不利益を受ける僻地三社(JR北海道・四国・九州)は、路線をどんどん“廃止”せざる得ない訳であり、本州三社(東日本・東海・西日本)でも、新幹線以外の路線に関しては、ある意味蔑ろにならざる得ない訳である。赤字国債の発行を“怪しからん”とした“民の声”に応えるために、選んだ結果に対して文句を垂れる人は“別人”でも、結局は“自分が選んだこと”として、何らかの“落とし前”をつけなければいけない。その方法はいくつかあっても、何を選んだとしても苦情が上がるのは目に見えた話で、それを“理由”に内閣総辞職を要求する様では、それこそ“浅はか”としか言い様がない。“自分”で受け入れなければいけない“対価”である以上、それを受け入れられないと言った時点で、“国外追放”されても文句は言えないのです…むしろ、受け入れ先がある上での追放ならヌルい位で、最悪は自害せざる得ないトコに追い詰められます。

平和維持といっても、その“解釈”を一つでも間違えると、却って国際的な諍いになる訳で、その一端に“戦争”が存在する訳です。当然ですが、戦争にもいくつかの“因果関係”が介在し、それが一種の“陰謀論”につながる訳です。特に、メディアが流す“情報”には、報じた者が“見てみたい景色”という願望が含まれていて、その多くは、“自分に被害が及ばない”ことを前提とした内容であることが必須になってます…つまり“騙されたモンが悪いw”という概念で、現場で起きた事柄を、自分の“思い通り”に展開したら面白いだろうというノリで、真実を曲解する訳です。その結果が従軍慰安婦に関する情報であったり、LGBTに対する誤解を招く報じ方であったり、他宗派に対する排斥を求める“意見”だったりする訳です。そこの共通するのは、人々が抱えてる“心の闇”を晒すことで生じる不信感と憎悪の連鎖であり、それを“他人事”として面白おかしく報じることで、“自分”以外の他人を“見下したい”という“欲望”なのです。ナチスドイツの愚行の一つに、ユダヤ人や身障者、LGBTの“排斥”があった訳だが、何でそれが“あの時代”にまかり通ったかと言えば、国民の多くが“少数派”に対して過剰なまでの保護や優遇に対する“不満”が底辺にあり、それを“周辺国”が当時のドイツに擦りつけた…という背景があります。そこに、ヒトラーの私情が絡むと、“指導者と同意”だった人々は、それを“免罪符”にして差別を“正当化”していった訳です。故に、その“代償”は祖国が分割されるという“悲劇”となり、90年代に再統合するまで苦しんだ訳です。また、中国共産党がやっている“人民浄化”も、人口の大半を占める漢民族の意向に添った内容であり、チベットウイグル内蒙古民族等に対して、固有の民族文化の廃絶や公用語としての北京語使用の義務等、一方的に押し付けてるトコがあって、故に香港の民主化運動家を“精神疾患者”として病院送りにする一方で、本来治療が必要な精神疾患者が起こす“事件”に関しては、ほぼ“無罪放免”という状況が発生してるという情報が、SNSで実しやかに散見される訳です。どっちにしろ、そこには、自分自身が“加害者”になってるという自覚がないまま、事が進んでいるため、行き着くトコまで行くしか止める術が“ない”のです。

だからこそ、“不戦”と“平和維持”は二律背反な話であり、それを本気でやり遂げようとするなら、自国民と周辺国に対してかわした“約束”を、どこまで“遵守”できてるかを見守ると同時に信じてやるしかないのです。双方が疑心暗鬼になれば、必ずそれ故の齟齬が起こり、内乱や戦争に発展するのです。いかなる独裁者でも、その“きっかけ”は民衆と官僚、メディアによって“作られた理想”であり、それを体現する“依り代”として担がれるトコから始まる訳であり、自分達の願いを叶えてくれる存在として担いでいる以上、当人の意向には逆らえず、そしてそれを逆利用して暗躍する人々は、巨万の富を得る代わりに定住できる場所を失うのです。それでも、そんな富豪や独裁者を“羨ましい”と思います?

“男尊女卑”ってそんなに重要?

東京医大の“女性軽視”な話といい、望まぬ妊娠からの出産で“我が子”をトイレに遺棄したとして逮捕される話といい、話の根幹を問えば、未だ日本は“男尊女卑”という概念が蔓延っていて、ちょっとやそっとじゃ変革できないほど“社会が病んでる”のである。でも、それって本当はみんな、無自覚のままで今まで来てるからこその弊害じゃね?そもそも“男らしさ”の主眼として、人前で泣かないとか、女性よりも体力があるとかいうけど、そんなのは個人差がある訳だし、それが“原因”で体壊した男性ってクズな訳?“女らしさ”という主眼も、家事も育児もワンオペ当然って、どうな訳?いずれの考え方も、途方もない大間違いであると同時に、本当に苦労してる人に対して愚弄したいだけじゃね?

“男尊女卑”って概念は、本来であれば、女性に比べて体力や知性があるという自惚れが生んだ誤解であり、女性が社会的な役割を“家族を守る”ことに集中させることを主眼に蔓延ってるトコがあり、要は男性としては“自由”でいたいだけの話である。家庭に縛られ、組織に縛られ、とにかく、杓子定規な人間関係を断ち切りたい割りに、それに似合うだけのスキルを“他人”に頼ってるのを、世間的に誤魔化したいから生まれた論理であり、宗教哲学の多くも、そこんトコを否定して“女性を大事にしろ”って指摘してるのに、ほぼ聖職者や為政者はガン無視してる訳である。なんせ、この輩は、自分自身の自尊心維持に勤しむあまりに、様々な部分で女性の存在そのものを“排除”した訳である。当然だが、女性に求めるモノは、自己の“快楽”や“ストレス発散”のための奴隷であり、女性もまた、そんな“弱い存在”の為の犠牲は甚仕方ない“宿命”としてきたのが、今日の誤解に繋がるのである。これは、ある意味有史以来の“呪縛”と言ってもおかしくない話である。

もっといえば、なんで男性社会が世界中でまかり通っているのかといえば、女性に対する価値観が、どこまでも“男性目線”で語られ続けているからであり、また、女性もそれに従わざる得なかったトコがある…正確にいえば、矢面に立つ男性の陰で、自分の意のままに社会を動かそうとする女性もいた訳であり、そういう女性が嫁さんだったりすると、当然だが“旦那”である男性は、“自分の嫁可愛い”で騙され、故に他の女性に対しても、ほぼ“同じ感覚”で取り扱う訳である…こういうと“女性軽視”の要因は、結局女性自身が作ってる様に見えるが、本質的にいえば、女性そのものを単一化して見てるからこそ悪いのであり、男性でも身体的ハンデから女性よりも体力がない人もいるし、成長過程での疾患(外傷性内臓疾患とか、栄養失調からのホルモンバランス崩壊による生理不順とか…)が因で、子供を作りたくても“作れない”人もいるし、中には体質的に(特に男性の精子)女児しか作れない夫婦だっている。そこんトコを全部“女性のせい”にして、男性“のみ”で社会を構築して、家庭内で“性処理用に飼う”という感覚で、女性の地位を潰してきた訳である。だから今でも、いわゆる“宗教原理主義”を標榜するテロリストは、事ある毎に知性に富んだ女性を“魔女狩り”してきた訳であり、また、それに似合うだけの報酬を得られる(=女性を大勢、家に監禁しても十分な)様、賃金体系もなってた訳である。しかし…それ故に困った事になる訳で、それは“女性でないとできない仕事”を、女性を排除した分だけ、男性もやらないといけない訳であり、その為の“犠牲”が出たのはいうまでもない。LGBTに関する“歴史”でも、特に俗に“ゲイ”と蔑まされてる男性の中には、性的興味が異性に向かなかったというより、ある意味強引に性的処理をやらされたことがきっかけでそうなった人もいる訳で、今でも幼少期のトラウマが因で苦しんでる人だっている。

話がいらん方へ逸れたんで元に戻せば、要は男性“だけ”で物事が回せたらラクだと考える人が未だに多く、本当に“自分がやりたいこと”に対する障壁の多くが“コレ”であることに気付いてない人が多いだけの話で、看護師や保育士、介護関係を“女性”に縛ってる背景にあるのも、要は男性の多くが“この職は女性のモノ”と押し付けてるトコがあるからであり、また女性の多くも男性看護師や保育士に対する不信感(特に性的被害に対する警戒心)が強過ぎることが一因になってるのです。根本的な部分での“不信感”が拭えない以上、いろんな意味での“男尊女卑”の状況が変わることはありません…そう、マスメディアが面白がって“事件”を取り上げる度、男性の介護・育児従事者が不当に叩かれ、また、女性の介護・育児従事者が悲鳴を挙げても世間が無視し続けるのも、“自分自身”がその立場の人から世話になっているにも関わらず、それが“当然”という態度で接しているからこそ、なにひとつ解決しないのです。

この話の最後に、今は亡き叔母の話を…彼女は長年、某市立病院で看護師をやっていて、婦長まで勤め上げた人である。伯父(=オトンの兄)がテーラー(自宅でオーダーメイドスーツの制作・販売)をやっていたこともあって、常に家には誰かがいる状況だったこともあり、夜勤で留守にすることも多かったし、オイラがオトンに連れられて家に行くと、夜勤明けなのにオイラや従兄弟に付き合って遊んでくれたりもした。でも、そのストレスは相当なモノで、現役時は煙くなるぐらいタバコをガンガン吸ってた記憶がある。(伯父も大概ヘヴィスモーカーだったがw)でも、問題なく子育てができたのは、伯父が“在宅勤務”であることと、近所に親戚(オイラの一族)や縁者が多かったことが大きい。特に近隣住民に顔が通るほど伯父は社交的な人だったこともあり、それ故に彼女は仕事に打ち込むことができたといっていい…母親としてやれることを満足にできたかどうかはオイラは知らないが、少なからずとも、従兄弟家族が家庭を持ち、孫の顔も見れたことは、一番の幸福だと思う。生涯にわたって看護師として働けたのは、周囲の理解と、そして旦那である伯父が不器用ながらも支えてくれたことにあると思う。そして何より、その背中を見て育った従兄弟は、整体師として働いている。辛い仕事でも、そこに“誇り”を持ってるなら、自ずと子孫はその跡を、何らかのカタチで継いで行く…純真な子供ほど、大人の所作をちゃんと見てるから、自ずと自分が進むべき道を選ぶことができる…それを潰す人程、過去において自分自身がそういう目に遭ってるからこそ、自分とは関係ない相手の“夢”を簡単に潰して自尊心を得ようとする。それがいかにみっともないか…今一度、自分を見直すべきではなかろうか?

“生産性”ってなんのこと?

LGBTに関する話で、どっかのドアホが“生産性がない”といって問題になってるが、正直言って、いろんな意味で生産性がないのは、今の日本の社会そのものであり、もっと言えば高学歴“のみ”を誇って暴言吐いてる連中自身だと、オイラは考える。なぜなら、性的マイノリティーな人でも、その感受性やセンスの良さから衣料品や生活雑貨で優れたデザインの製品を開発できる訳だし、ユーチューバーやSNS界隈でも人気のある人ほどコミュニケーション力は半端ない。そして何より、中卒でも処世術に長けた人ほど成功者になるのは、地道でも様々な知識を得るために恥を忍んで挑み続けてるからこそであって、そこに“共通”してるのは、どこまでも“相手を想う”という一点に尽きる。当然ながら、身障者(知的障害も含む)でもそのハンデ以上の活躍ができる人ほど、自分自身の立ち振る舞いに対して、細心の注意を払える訳であり、健常者でも、それができない時点で“お察し”なのである。

学歴至上主義に走った結果、結局、業務内容や必要最低限度のスキルが見合ってないのに、有名校やトップレベルの学位という“ネームバリュ”のみで雇ってるから支離滅裂になるのであって、本来であれば、就職希望者が“持ってるスキル”と、それに似合うだけの“業務内容”をマッチングさせることで業績は上がるモノであって、そこを無視した雇用情勢だと、離職者が増えたり、企業の技術力が低下するのは目に見えた話である。そもそも、そこに性的マイノリティーや出自なんて関係あるか?もし、それが“重要”だと考えているのであれば、生産性が上がらない理由もはっきりしてる訳で、要は使い勝手の悪さを他に求めるから拗れてるだけの話である。言い換えれば、功績を求めるあまりに失敗に対する“責任”を、とにかく“自分以外”にしとけば“傷付かない”という考えでやってる訳であり、そういう“誤った他力本願”な態度だから、ある者は“理不尽な鉄拳成敗”に怯え、またある者は“褒められたい”一心で上司の悪行に加担し、そして自分自身の“劣等感”をどうにかしたいから不特定多数の“弱者”を攻撃する訳である。

高学歴な著名人ほど、自分の“学歴”を振りかざして為政者や他の学者、識者の“失策”を叩くけど、そういう人ほど自分自身が“その立場”になった途端にボロが出る。いくら学業成績が優秀だろうが、名門私学出身だろうが、“その先”で他に学ぶべきスキルの習得とかに費やすべきトコを怠った上で、他人からそこんトコを指摘されるとムキになって“言葉”で反論する訳だが、そういう人ほど中身がない…そう、“実際の経験値”そのものが、RPGでいうトコの“レベル1”以下なのに、単に“頭エラい”で天狗になって、相手を見ずに殴ってる訳である。

“相手を想う”とは、それ即ち、自分の身の丈に合った立ち振る舞いをもって接する事であり、それは同じ“レベル1”でも分野が違う時点で話は変わるという事を失念してはいけない事でもある。同じ身障者でも、先天的なモノの人と、事故や病気が原因でそうなった人では“生活習慣”そのものが違う。先天的に欠落してる事自体が“普通”な人にとっちゃどうってことのない事でも、後天的な人にとっちゃ“同じことやれ”と言われてできるモノじゃない…分相応に訓練を必要となるからだ。同じ様に、出自が不明であっても、“同じ場所で戦う”以上は、対等なる存在として扱うのが礼儀であり、その結果に対して一切のイチャモンも付けてはならない。将棋界で“中学生プロ棋士”となった藤井聡太七段に対して、羽生善治名人が対局の際に手を抜くと思います?これと同じです。

高学歴・エリートであるほど、自分より“低レベル”な人が自分より地位が高いトコにいると、非常にムカつくらしい。が、なんで周囲が“自分を避ける”のかを理解してないと、どんなに他人より優れたる存在として崇めよと叫んだトコで、ウザがられるのがオチである。だって、単に自分の“過去”を褒めて欲しいだけで、“現在進行形は?”って問いに対して、何一つ答えられない時点で、他人からしたら“なんの価値もない”のです。だから“誰も相手にしない”のです。それに気付いた人ほど、今の自分の態度が、いかに“恥ずかしい行為”なのかと頭抱える訳です。そこから態度を改められるのであれば問題はないのですが…

Shin's Barへようこそ…文月の一杯

シン(以下シ):こうも暑過ぎると、ソフトドリンクばっかり出て、本職が開店休業状態ですわ…
潤平(以下潤):ショートよりもロングの低アルコールが人気っすよね。
シ:世間では高アルコール炭酸系が流行ってる様ですが、くれぐれも夏場の“水分補給”は、ノンアルコールでお願いします。
潤:高い濃度でなくてもアルコールの摂取は、その処理に大量の水を要するだけでなく、特にビールは利尿効果も高いため、どんなに飲んでも水分補給にはなりません…って、ここ酒場でしたよね?
シ:(´審`)b酒類を扱う飲食店だからこそ、お客様に対して気持ちよく利用していただくためにも、注意喚起は重要なんですよ。
潤:あ…そういうことかw

(カランコロン…)

シ:…と、いらっしゃいませ。
潤:ようこそ、Shin's Barへ…
アンジー(以下安):くぁー…暑い。兄ちゃん、キューバリブレ頼む。
アポロン(以下晃):また、そんな安直なのを…シンちゃん、テコニック、できるか?
安:他人のこと、言えた義理かw
シ:(;´審`)=3まぁまぁ…どちらもすぐに用意しますね。
晃:お、スマン…
安:しかしまぁ…こうも暑いと、野外での作業もままならんな。どんなに水を飲んでも、大量に汗が出るから間に合わん。
晃:いや…室内でも冷房ナシだとかなり酷だぞ。昨今では、高齢者の熱中症死が増えてる一因に、日中でも冷房を使わずに過ごそうとしてるからな。水分もだが、高血圧を気にし過ぎて塩分を控えるモンだから、余計に塩分不足でエラい目に遭ってるのだよ。
安:あ、それ言えてるな。昔ならそれでも良かっただろうが、今は日陰にいても気温が40℃を超えるケースも増えてる…にも関わらず、なぜ頑なに冷房を嫌うのだ?
潤:多分…戦時下の教育が原因では?
晃:はぁ?
シ:正確に言えば、物資不足を理由に、安直なまでに“忍耐”を美徳化したことが、結果として今日の教育現場での“理不尽な指導”に繋がってるって事です。小学生が熱中症で倒れようが、中学生が体調不良を訴えても信用せずに懲罰を与えたり、夏休みを“部活”で潰したり…
晃:ああ…そういうことか。しかし、それとこれは別だろうが?
安:いや…直結してるかもな。
晃:え、どういうこった?
安:我輩達の時代は、今よりも物資はないし、教育者も多くは戦争経験者であり、しかも指導要綱は技術向上や効率化よりも“歪んだ精神論”を説く方が安上がりで、手っ取り早く“自分好みの有能者”を選り分けられたってことだ。実際、プロ野球選手やオリンピック選手を夢見た子供達の多くが、その精神論に基づくスパルタ教育の影響で、身体を壊して夢を捨てざる得なかった。そこを踏まえると、そういう“鍛錬法”で生き残ったものが指導者になれば、自ずと同じことを繰り返すことになる。スポーツ科学の目から見たら、とてもじゃないが基礎がまだできてない子供にやらせてはいけないことを、平気でやらせている時点で“潰れて当然”なことなのに、それを未だにやってるからなぁ…
潤:しかも、体調不良で参加できないと訴えても、相手が“子供”であるがゆえに“虚偽報告”だとして信じてもらえず、それが因で部活中に亡くなってるケースもあります。
晃:………ワシらと違って、現代っ子の方が軟弱だろうが、それは。
安:いや…むしろ今の子達の方が、成人までの“生存率”は高いぞ。我輩達の時代は、それこそ、ちょっとした感染症による死亡率が高く、また、栄養失調による生育不良も多かったことを踏まえると、予防接種の徹底や栄養管理学の確立などが功を奏して、先天的疾患や不慮の事故などがない限り、個人差はあれど18歳までの成長期を、殆どがクリアしてるぞ。逆に我輩達はどうだ?昨日まで顔を合わせてた友達が、突然いなくなることの方が多かっただろうが。
晃:うーむ…そこまで言われると、確かにそこは認めざる得ない。しかしだ、夏でも冬でも、子供は外で走り回ってるのが相場だろうが。そもそも、部屋にこもってテレビゲームをしてるなんぞ、不健全極まりない!!
安:それはどうかな?昨今、気温が40℃を超える日も珍しくない夏場に、外で遊べというのは、危険極まりない行為だぞ。“不健全”というには、今と昔じゃ全く別物だ。まして、夏の虫であるセミや蚊ですら、猛暑日と言われる気温に達すると、活動停止するんだぞ。
シ:しかも40℃を超えたら、多くの蚊は死滅するというデータもありますからね。
潤:子供達にとって“頼みの綱”でもあるプールも、野外の場合、水温が35℃以上になっていて“遊泳禁止”になってるトコもあるのと、炎天下での日焼けは全身火傷と同意ですよ。
シ:もっと言えば、自分の享楽を優先するあまり、子供やペットをマイカーに置き去りにして死亡するケースが後を絶たない事を踏まえると、失礼ながらアポロンさんの考え方こそ、戦時下教育の影響が濃いとしか言えません。
安:そういうこった。我輩達が経験した以上に過酷な条件下で、今の子供達が強いられていることを考えると、これは我輩達の“責任”ではないか。日本人の悪い習慣の多くは、自分と“同じ”でないと気が済まないという嫉妬心が、社会全体を支配してるという事だ。そこを正そうと思えば、我輩達が受けた様々な悪習を、我々自身の手で“終わらせる”しかないのだ。だが、どうだ?我輩にしろ、お主にしろ、既に鬼籍の者…どんなに嘆こうが訴えようが、我々ではもう、どうすることもできん。悔しいが、な…
シ:だから、迷馬さんのような存在に対して“信じて委ねる”しかないんです…俺達の一番伝えたいことも、理解してほしい部分も、何もかも…
晃:…そうだな、今はそれ以外の方法はないのなら、それでいくしかないのだな。

潤:ちょっと白熱し過ぎた様なんで、頭を冷やす一杯を…クラッシュアイスをギチギチに詰めたコリンズグラスにジン、ウオッカテキーラ、ラム、ホワイトキュラソーをそれぞれ15ml、フレッシュレモンジュースを30ml、コーラを40ml加えて軽くステアし、レモンとチェリーを飾れば…“アイスティー”とは名ばかりな、最凶のストロングカクテル、ロングアイランドアイスティーですw 作り方こそ単純ですが、飲み方注意な一品です。
晃:まさか…コレが出るとは思わなかった。
安:紅茶の要素が一つもねぇw

全部“教育”が悪い?!

正確に言えば、


日教組が悪い”


…ってことになる。ま、名誉毀損による裁判になる覚悟で暴言を吐けば、学校でのエアコン使用を禁じたり、炎天下で長々と部活やらせたり、医師やJOC等から推奨されてるスポドリを“ジュースの類”として禁じたりといった時代錯誤な話が頻発するのは、結局は教師自身が生徒・学童を見下した挙句、学校という名の“閉鎖空間”上で絶対的な主従関係で支配してるからである。しかも、社会に出てからも“主従関係”を維持するために、本来であれば教えるべき法律規約や社会の成り立ち、更にはそれを“読み解く”ための国語力向上や歴史(史実)の研鑽を、“大学受験に不要”と言わんばかりに、授業では“教えない”ことが多い。そう、公選法民法公営競技をやる国や自治体の“言い分”など、本来であれば、社会に出た時に役立つことや、知っていないといけない“常識”的な部分が欠如した若者(若年層の有権者)が増えた背景が、ここにある訳である。もっと言えば、“教育”という言葉を隠れ蓑にした“洗脳”が、日本の教育現場ではまかり通ってしまってる訳である。

そもそも“日教組”ってのはどういう団体なのか?本筋は教育者達の“労働組合”であり、教育現場の処遇改善や“働き方改革”の実現を目指す存在である…が、これは“表向き”の話であり、現実を言えば日本共産党に、ある意味直結してる集団である。だからメーデーとかの集会で、平気で“憲法改正反対”だとか、“米軍出ていけ”といった、就労者が掲げるべきスローガン(賃金上げろとか、休みよこせといった基本的なこと)を無視して政府批判に利用してる訳である。そういう連中が、公立学校の教員を務めていて、且つ、教育委員会の幹部を務めていたら、そりゃ、“子供の人権”を無視して好き勝手な行為を、教育現場でやりまくるのは当然の話になる。もちろん、校内でのいじめ問題が全然解決しないどころか、その犠牲者が増えても、教職員や委員会幹部が“責任”の所在を被害者遺族(=保護者)に押し付けたり、体調不良を訴える学童を“サボり癖が付く”として体罰を与えるなどといった“非常識”な指導をやるのは、全てにおいて“学校上の絶対君主”であると同時に“責任者は他人”という態度で今日まで来てる訳である。

何度もここで話でいるが、共産主義とは本来、基盤となる宗教哲学…即ち“人を想う”精神に立脚し、互いに尊重し支え合うことが是であって、そこから外れた概念は、邪義でしかない。しかし、それがまかり通ってる背景には、レーニンの遺した言葉の“誤用”と、宗教以上に先陣の“指導者”を神格化して、民衆に“服従すべし”とする、カルト染みた支配体制を是とした概念が、未だに残ってるからである。前者に対しては、ある意味で後者の態度を皮肉ってる様な話であり、故に後者は自分自身がやってる行為が、過去の轍を踏んでる事に気付いていないからこそ、“同じ過ち”が繰り返される度に、周囲の“他人”に責任をなすりつけて逃げるのである。

“宗教は麻薬”という言葉の本意は、いかなる組織も幹部が堕落し、信徒(=支持者)の施しが“常態化”する事で、慈善行為に対する“感謝”の気持ちが失われ、信徒からの意見や指摘を“過去の権威”を用いて“潰す”ことをやっていると、必然的に本来であればないハズの“上下関係(身分制)”が形成され、それによる“出自に基づいた支配”がまかり通ることになる…ということを端的に指摘しただけであり、その指摘を無視して“偉大なる指導者”としてレーニンを担いで神格化した挙句に、その“正統な後継者”と自らを据え置いたのがスターリンであり、そこから“ソヴィエトによる恐怖政治”が、今のロシアを中心とした東欧で拡大した訳である。しかし、ご存知の通り、こういう民衆を圧政した政治が100年も続いた試しがなく、また、アジアでコレをやろうとして失敗したのがカンボジアポル・ポト政権である。(逆をいえば、その数少ない“成功例”になりつつあるのがキューバの行政であり、その背景にあるのが、アメリカの白人至上主義に対する反骨精神的なモノであることだけは、覚えててほしい)

学歴至上主義がまかり通るのも、結局は“支配者になりたい”という願望と、だからといって“責任者になりたくない”という、一般人が聞いたら“ふっざけんな!! ”と叫びたくなる様なことを“平然”と行うためのモノであり、そこには、相手に対する“感謝”という気持ちも概念も存在しない。だから、学業に全振りした若者が“自分の価値”を世間からバカにされる度に卑屈になり、それを“褒める”こと、“認める”ことをやったのが“宗教”の名を借りたテロリスト集団だったら、そこになびくのは、ある意味で“必然”としか言い様がない…つまり、日教組という組織そのものが、“腐った共産主義”そのものを、いまだに“正義”として疑わずに今日まで活動してるモンだから、体調不良で体育の授業が受けられないって訴えても信じてもらえずに、炎天下の校庭を走らされたり、水分補給を禁じられたり、いじめがあっても“報告すんな”で一喝される…といった、“未成年の人権侵害”が学校内で横行する訳である。そんなことをやってる連中がジェンダーフリーだ外国人を差別するなとかいってる時点で片腹痛いし、そういった“暗黒の正義”を振りかざしてること自体、哀れで仕方ない。

“人を想う”“人を信じる”という宗教哲学上、最も基本で、最も重要な根幹部分をブチ壊しておきながら、それでも自己の正義以外“認めない”という態度で“相手”を支配しようとすれば、必ず衝突することが目に見えている。だから、幼い頃からの“教育現場”にて“洗脳”すれば、思い通りに社会を支配できる…その上、失敗の“責任”を実行犯になすりつければ、指揮官としての自分は処罰されないし、いくらでも配下の民を無駄遣いできる…こう考えるエリートが多いのが“間違った共産主義”の社会であり、指揮官が“責任を受け持つから、お前ら自由にやれ”って言える人がいないから、幕下は臆病になる上に“逆らえない”という幻惑に振り回されて組織そのものが腐敗するのである。だけど、それを“望んだ”のは、いうまでもなく日教組に属する教職員自身であり、深く物事を考えずに、疑いの眼を持たずに今日まで来たことで、極悪クレーマーモンスターペアレンツといったクズが量産されるのである…真の意味で“頭のいい人”とは、学歴ではなく、実体験から求められる対処法を実践し、多くの人に広めることができる人を指す。そこには、徹底して“人を想う”と“人を尊ぶ”、そして“信じる”ことの重要性を、様々な事柄から“学んだ”からこそであり、自分自身の価値観に対して、他人からの批判に“怯まない”そして“なびかない”ことに尽きる。その“訓練”の場が宗教の“修行”であって、そこが抜けてる以上、道徳なんてのは身につかない。授業で“道徳”をやっても意味がない最大の“理由”が、教職員が目の前の学童の“人権”そのものをバカにしてるからこそである。学童・生徒は、教師の“奴隷”ではないし、仮に“奴隷”として扱うなら、その“管理”に対して“責任”が生じる以上、体調不良やいじめの事案に耳を傾け、対処するのがスジである。それが“できない”のであれば、その時点で“管理者失格”であり、教職員である必要もない。