迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

愛すべき“バカ”と嫌われる“バカ”の差

いわゆる“バカ”にも、人々から“愛される”者と、その真逆で“嫌われる”者がいる…主観的な言い方をすれば、同じバカでも、好みの違いで“好き嫌い”が出るのと、まったくもって笑えない、正直迷惑でしかないのとのがある。但し、コレが客観的な見方で判別した場合、本当の意味で“ダメ人間”なのと、普段は空気でも有事に“切り札”になる存在では、その意味合いも、存在価値も違ってくる。

 

 

 

“愛すべきバカ”には、根本的な部分で、人々から“愛される要素”があり、また、学術や科学開発分野で一見すると“どうでもいい事”を研究してる様で、実は意外な“謎解き”に取り組んでて、それが世間で“役に立つ”モンだから、笑えるけど偉大な成果に驚くという訳である。その真逆…つまり“嫌われるバカ”とは、単に“常識外れ”という意ではなく、やってる事自体が“自己の正義”から来る傲慢さが含まれるから批判されるのである。勿論、“正義感”そのものの否定ではない…必要以上に承認欲求や金銭などの報酬を要望する事や、過去の功績や経歴“だけ”で、人を見下す態度が目に付く為、次第に“相手にしたくない”と、離れてく訳である。

 

また、どんなに悪ふざけをやってても“許される人”と、そうじゃない人にも完全な違いがある。前者は芸人であり、生業で相手も同業者であり、互いの手を読み合ってやってるからこそ“成立する芸”をやってるのであり、それ以外の人が、全くの赤の他人相手にやれば、同意無き行為(=犯罪行為)となる。仮に相手と“同意した内容”だったとしても、被害者が一方的に損害を受けてる以上、法の下では、その論理は通じない。通り魔的犯行(痴漢・盗撮行為含む)が重罪になるのは、そういう事である。

 

バラエティー番組での演出が因で、小学生が真似していじめをやるからといって、多くのコント芸がメディアで取り扱われなくなった分、校内でのいじめは減ったかと言えば、その真逆になってるのは、加害者にしたら“面白い”し“楽しい”からやってるのと、本当は親や教師に“構って欲しい”からこその行為であり、被害者にしたら加害者以上に周囲の大人の態度が“信用できない”から、自死という選択肢を安易にしてる訳であり、どっちも“バカ”ではあれど、叱る方向性が間違ってるから救い様が無いのであり、その“反省”も当事者だけでなく、関係各位全員がやらないと意味がないのである。どんなに下劣な芸でも、それを見て“笑顔になる”人がいるなら、一応大目に見てもらえるが、その“笑顔”の正体を知って、“やってはいけない”という自戒を立てられてこそ、実は本物の“お笑い芸”は成立する…人の失態を嘲笑うのは簡単だが、それを用いずに笑わせるのは、実はいかなる演技よりも難しいのであり、自虐ネタも、観客の好みや想像力が合ってないと“笑えない”のである。

 

 

 

では、“愛すべきバカ”になるには、どうすればいいのか?明確な答えは存在しないが、ただ、それが人々に“笑顔”を与えるモノである事が必須であり、故に、一見すると無駄なモノに思える考察や研究であっても、その応用技術や活用範囲が広いと、その分社会で役に立つのである。また、自分を犠牲にしてまでやってる事が、他人からバカにされたとしても、それは、その批判の数だけ関心があるからこその話である。本当に関心がないなら、話題にすらならないw

 

“嫌われるバカ”になるのは凄く簡単であり、誰でもすぐになれる…なんせ、価値観や世界観の違いから批判されるのは当然だし、自分が面白がってても、それによって他人が傷付くのであれば、罵られるのも当然である。だが…敢えて“嫌われ役”を買って出る人は、その時点で芸人以上に聡明で知的でなければできない。なぜなら、罵声や批判に耐えられるだけの忍耐力と、敢えて“バカ”を演じる度胸がないと務まらないからである。

 

 

 

同じ“バカ”でも、多くの人々が笑顔になるために努力してるのと、多くの人々を見下すのでは、意味も方向性も違う。そして、“笑顔”にも安堵や不安の払拭といったモノと、傲慢さや承認欲求からの侮辱では、その価値も変わる。だったら、“愛されるバカ”でありたいと願い、他人から見たらくだらない研究やしょうもない事案であっても、真面目に取り組んだ方が賢明である…同じバカでも、人々の“心の安寧”を求めてやった犠牲なら、その評価は馬鹿に出来ない程“尊い”モノだからである。

 

節度無き行為が文化を潰す話…

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ジャニーズ事務所が、一部所属グループのライブツアーを、“ファンマナーの悪化”を理由に、当面自粛するというニュースで、一部のファンが発狂してトチくるった意見が散見されるが、件のグループに限らず、ここんトコ、アイドルであれ、鉄道であれ、マナーレスによる蛮行によって、様々な弊害が社会で頻発している。まして、社殿仏閣での御朱印授与を、単なるスタンプラリーと勘違いして転売する輩のせいで、御朱印授与を“中止”するトコも出てきてる訳で、ここまで酷いと、いくら“経済活性のため”と言えど、看過できない。

 

ジャニタレヲタタと女性アイドルヲタは、互いに批判しあってる割に、他者から見たら“同類”にしか見えんw ま、そこんトコは鉄ヲタも一緒な訳だが…だが、昔のヲタは、ここまでガッツくバカは、ヲタ同士で粛清が行われていて、ヲタ活動の健全化を、仲間同士で躍起になってやってた訳である。しかし、そういう先輩達が築き上げた“ヲタマナー”が最近、完全に無視される傾向にあるのは、実は、SNSで自己顕示欲に駆られて、自慢話を繰り広げる事が一因にある。

 

その要因の一つとして推察できるのは、メディアが面白がってファングッズや限定品に変な価値観を付けた事であり、それを現金化する事による行為を正当化してる部分である。勿論、行為そのものに善悪を言うつもりはないが、だからといって、取り上げられた事象を、深く考えずに飛びつくのは、結果として、ヲタ同士で通じ合う価値観の否定に他ならないのであり、それだけ経済そのものが、既に破綻してる証左と考えてもおかしくない。ヲタの価値観とは、それ即ち、文化的遺産を意味してて、サブカルチャーの歴史そのものを知る為の手掛かりとも言えるのであって、そこに金銭的価値観でどうこう言い始めると、流行り廃りで乱高下しては、本来保全すべき価値があるモノでも、金銭的理由をもって廃棄する事になりかねない。

 

また、自分が気に入った、様々なジャンルの嗜好にこだわるあまり、自分の価値観だけで物事を批判する事は、ひいては自分自身が持つ価値観そのものの否定に繋がりかねない。特に、件の問題はまさにそれで、ごく一部といえど、熱狂的な輩が起こした一連の行為は、結果として、他のヲタ活動にまで影を落とす要因になってる。そう…本来、個別案件なら完全にストーカー行為であり、それが集団心理に至ったからこその、事務所判断で規制を掛けたと解釈すれば、話の辻褄が合う事になる。つまり、他の公共交通機関利用者や会場周辺住民、および、所属タレントの“身の危険”が予期出来たからこそ、今回の騒動に至ったのである。当然だが、コレは何もジャニヲタに限らず、全てのヲタが“共通認識”として有すべき話であり、節度を守れずに傍若無人を働けば、それが因で、事務所や関系各所が好意で公開してた物事が、一切“ダメ”になる。

 

 

 

ブロマガでも、馬産地見学の際には防疫面も含めて考慮した上で行動すべしと何度か書いたが、コレと全く一緒。自分の浅はかな行為が結果として、同じ趣味を持つ他者に多大な迷惑をかける事になりかねないなら、そこで一歩引き下がって、冷静に考える事が重要になる。同じヲタでも、マナーを弁えて接するべきであり、その結果、関係各位から特別扱いされたとしても、そこは他人に誇るべきじゃない。あくまで“ヲタ代表”として目に掛けてくれただけであって、そこをバラすと、確実にヲタ同士で僻みや妬みが生じて、結果、関係各位全体が哀しい思いをする事になる。そこを避ける為にも、節度ある行動を心掛ける事が、今後も課題になるでしょう。さて、今週末は東京優駿(日本ダービー)…現場で観戦される方は、くれぐれも近隣住民とのトラブルを避け、節度ある行動をとってくだされ。


行政の闇、地方の闇、東京の闇…

このネタは、22日更新のブロマガと連動してます…こっちは政治に関わる話。

 

岩手競馬の馬主協会長の失言に関しては、ブロマガを参照して欲しいが、ここでは“地方自治”に関わる部分と、何で“東京ブランド”信仰が地方自治体…特に都道府県レベルで頻発するのか、そこんトコを推察することにする。正直、この話は、世界規模のイベント誘致や、リニアや新幹線、高速道等の交通インフラ整備事業にも影を落とす問題であり、事柄を俯瞰する推察力や、相対的な感知を要する、非常に厄介で難儀なモノである。

 

 

 

教科書通りの感覚で東北6県を推察すると、総じて首都圏の経済活動に依存してるフシがある。特に東日本大震災以降、太平洋側の3県は、東京電力福島第一原発の事故も相まって、顕著なほどの依存度が高まってる様に思える。ま、福島県は実質“被害者”みたいなモンですから、ある意味で仕方ない部分はあるんだが、それ以外の東北地方の自治体はどうだろう?それこそ、首都圏…特に東京都への依存度が非常に高い様な気がする。逆を言えば、関西や中四国、九州で東北6県の話をしても、それこそ競馬ファンならいざ知らず、関心が薄いのは、あまりにも“遠い場所”だからという感覚がある。

 

更に言えば、沖縄や奄美島嶼地域に住んでいたら、まず“東北?なにそれどこな訳”ってなるのであって、同じ東京都でも、都心の23区内と多摩地方、伊豆諸島&小笠原では、同じ“東京都出身”って言っても生活様式そのものが既に別次元であり、インフラにも格差が出る。

 

では、何でこんな格差や依存体質が生まれるのか?その大元を辿れば、一極集中のツケであり、地域事情に則した整備をするにも、当該自治体の財政が“厳しい”が故に、単独での開発が“無理”ってのがある。実は、ここが諸問題をややこしくしてる“元凶”である。つまり、“大組織”の要である事業でも、“個別単位”にすると迷惑なモノであったり、個々の事情から考えると深刻な状況でも、全体からしたら“無視できる”範疇だったりするからである。この事が、東北6県と首都圏の、経済格差からくる依存の構図が出来上がる訳で、また、関門国道トンネルの新増設工事に対して、一部住民が“イラネ”って発言する要因にもなってる訳である。当然だが、九州新幹線長崎ルート開設ができない背景にも、沿線にあたる佐賀県の経済波及効果が希薄という感覚も同じで、要は、該当する事案の当事者に、何らかの“見返り”があるか否かで意見は変わる訳であり、更に、それが体現できる相手であれば、たとえそれによって実害しかなかったとしても、その時点での取引の“功績”だけが重要であって、後の事なんで“どうでもいい”訳である。

 

岩手県政を“よそ者”がウダウダ言うのは、正直みっともないしバカバカしいが、“日本”という国全体で俯瞰した時、ここで“功績”を挙げたものが成り上がりで国政や他都道府県性を批判する態度…更に、地元を盛り上げようと躍起になった功労者が“女性”である事を理由にバカにするのであれば、その態度が“原因”で岩手競馬だけでなく、岩手県そのものが“時代遅れ”を理由に近隣県民からも相手にされなくなることになる。今の段階ならまだ取り返しがつく状況だが、手元にある県民性あるあるネタの本を参考に岩手県民の性格からして、そんな“はんかくせい”事はできないと思われる。その態度、正直…今の岩手競馬関連番組の担当MCに対しても失礼極まりない姿であり、件の者の“本性”と受け止めた方がいい。当然だが、人気声優がラジオで言った戯言を真に受けて、イベントを無理やりセッティングしてる事自体、当人が“東京出身”とは限らんんのに、“東京発の全国放送ラジオ番組で言った”だけで期待してる事程、依存体質と批判されるのは、愚の骨頂である。

 

 

大きな組織であればあるほど、一見すると“無関係”な事象であっても、実はトンデモナイ重要な事象だったりする。逆に、話題性や規模からして大掛かりなモノでも、その内容や実情を知った途端にバカバカしく思える事象もある…だからこそ、人知れず、水面下で事を進める事案や計画がある訳で、そこを公にしたら、批判が殺到するのは当然である。来年の東京五輪にしろ、2025年の関西万博にしろ、問題点ばっか言って叩くのはいいが、それに似合う“代案”や、地方の経済活性化に必要な整備を“お金がない”を理由にやらないのであれば、いかなる文句も言うべきではない。まして、どうにかして経済活性を促そうと躍起になった功労者の手柄を横取りして、英雄気取りをするのであれば、問題が発生した時には、当事者でなくても“生贄”になってもらおうではないか。それが、事象に対して役職を持つ者が取る“責任”のあり方の一つであり、肩書きの“本当の価値”を示す態度である。それが嫌で逃げた以上、批判は免れないし、潰されても文句言えた義理じゃない。

 

あ〜あ…恐れてた事になってもたw

今日、定期検査(眼圧&眼底)を、地元の掛かりつけ眼科で行ったら、左眼も去年の右眼同様に網膜剥離一歩手前状態になっていた…ま、糖尿病網膜症ってのは、眼球内の新生血管が異常発生し、出血する事から網膜の裏に血小板が作るフィブリンが大量に付着して引っ張られる訳で、当然、糖尿病による失明の原因の一つでもあり、前回の右眼は、まさにそんな状態だった訳である…あ、今はむしろ、視力そのものは回復して、日常生活には支障はないけどねw ただ…思い当たるフシがあるなら、介護疲れが引き金になってるのと、右眼を庇っているからこその弊害と推測してる。(主たる原因は糖尿病を今まで放置してた事だが…)

 

 

 

 

 

 

と、いう訳で、ブロマガ、および、はてブでの更新は、来週分をもって、また暫く休止します…これからまだまだ、いろんなネタをやる予定だからこそ、今度は慎重に治療に専念せねば。もちろん、Twitter の方も、当面自粛です…目標は、次の免許更新(まだ4年先だが…)までに視力をどうにか戻す事w せっかく右眼が回復傾向になってる以上は、それを維持せねば。さて、来週末の入院に向けて、色々準備しますか。

散歩という名の“社会科学習”は重要…

大津の交通事故で、2歳児が犠牲になった件で、幼稚園の姿勢(公道での散歩)を批判する人がごく一部で見られたが、的外れもいいトコだし、そもそもは右折車が道交法違反行為(センターライン越しに強引に交差点進入からの前方不注意で直進車へ体当たり)が原因で起きた“巻き添え事故”であり、幼稚園に落ち度は何一つない上に、危険回避の為に、交差点から離れた位置で信号待ちをしてた…にもかかわらず、事故に巻き込まれたのは、上記の原因が全てである。もっと言えば、安全確保をやってても、死亡事故はいつでもどこでも“起きる”訳であって、そこを間違えて“管理者責任”として責めるのは、常軌を逸した行為でしかない。

 

 

さて、ここからが本題なのだが、幼稚園・保育園の散歩や、小学低学年の遠足には、レクリエーションとしての意味合いよりも、社会の理を学ぶ“実践の場”という意味合いが大きいのであって、故に、移動手段が観光バスでの貸切ではなく、ワザと通勤時間の電車や徒歩での移動になる。つまり、交通インフラの重要性と、そこに伴う危機管理の初歩的知識を学ばせるのが主眼であって、目的地自体が折り返し地点でしかない事が多々ある訳である。

 

昨今の幼稚園・保育園では、近隣の散歩が教育の一環として取り入れてるとの事だが、さっきも書いた様に、交通安全を学ぶ為の側面があるのは、この歳頃の乳幼児は、外界への興味から親の目を盗んであらぬ方へ行く習性があり、それが因で事故死するケースが後を絶たない訳であって、それを回避するには、親の注意力以上に、乳幼児自身に“危機管理”という概念を身に付けさせる必要性がある。親子としての信頼関係があるなら防げる事故も多いが、交通事故は、“親の不注意”だけで片付けるには、ちょっと理不尽過ぎるモノが殆どであって、そこんトコを理解せずに批判するのは、お門違いである。

 

そもそも、乳幼児に“死”を教えても理解不可能であり、故に、小動物を平気で殺す訳であって、しかも、機械仕掛けだと思い込んだり、現実の出来事すら“絵本の内容”という感覚で接するから、自分の身に“何が起きたか”っていうのを記憶する事すらあやふやである。だから、時として自分の“知ってる事”だけでどうにかしようと躍起になるのであり、そこに集中すると、もう周囲を見る余裕はない訳である。

 

それをどうにかして、視野を広げる方法を学ぶ場が“散歩”って訳である。目的地まで“まっすぐ歩く”のはもとより、周囲の“空気を感じ取る”事や、その情景の“変化を知る”事で、自分自身の状況を冷静に分析する知恵を学ぶ訳である。観察力や危険予知といった言葉は知らなくても、なんとなく、子供心に身につける場こそ、散歩の“大義”であって、そういう学習ができた子供程、公共の場で走ったり暴れたりしないモノである。仮に粗相をやっても、親が叱る前に、周囲の他人(店の従業員や施設のスタッフ等)の言葉だけで、粗暴な行為をやめることができるのである。

 

そういった“社会との関わり方”を学ぶ場を、事故を“理由”に中止したり、迷惑がるのは言語道断である。小学低学年までの児童が、公共の場で大騒ぎするのは、世間との接点が少ないからこその粗相であって、それが“迷惑”だと言うのは勝手だが、託児所も含めた乳幼児の教育施設で発生する奇声を“騒音”とする事自体、究極の“アホ発言”である。叱るのであれば、それは“何で”迷惑だと思うのかを、簡潔に説明してナンボであり、そこをすっ飛ばして感情的にブン殴るのは、単なる虐待である。

 

 

昨今の親世代が“子育てしんどい”と思うのは、学業成績のみ優秀でも、世間との接点が希薄なまま幼少期を過ごしたからこその弊害であり、周囲も“家族間で子育て”を常識だと思い込んでるからこそ、余計に子育てし難い(=周囲から協力を得られない)訳である。その負担を軽減する為に幼稚園・保育園を利用してるのであれば、子供の“経験談”を聞いてやる事と、教育機関だけでは学びきれない部分を、様々な場所に連れて行って経験させる事が、子供の知識を広げる手立てであると、オイラは自分自身の経験(子供時代)から推察する訳である。その為の“犠牲”を、あなたは払えますか?

“情報”に惑わされると“本質”が見えなくなる話。

海外メディアとて、ことの“真実”なんて報じるトコはない…なぜなら、報道機関に携わる人の多くは、様々な思想に対して“中立中道”で居られる訳がなく、また、本拠地となる国の“常識”を基準として報じてるため、他国の感覚では“常軌を逸してる”という批判があってもおかしくない。悲しいかな、英語圏が世界の常識っぽい国際社会では、いくら日本の常識を懇切丁寧に説明しても通じないし、誤解や偏見報道がまかり通るのも致し方ないトコである。

 

 

ただ…ここでそれを語ったトコで、断片的な情報のみで事の全容を把握できる訳はなく、大方は聞き流して忘れるのがオチである。なぜなら、いかなる情勢の近況が報じられたとしても、自分と“直接”関係ある事以外なんて、頭に残る訳もなく、ただ単に“史実”が残っても、その“現場”に立ち会ってない以上、“他人事”だから無視されるのである。これが、本質…“自分”と“他人”という“絶対的な区別”がある以上、自分自身の五感以外は“信用できない”のである。

 

では、なんで人は断片的な情報に惑わされるのか?それこそ、五感…視覚と聴覚で入手できる情報は、あまりに身近なモノであるからだ。新聞やテレビ、ラジオはその最たる“断片情報”の根源であり、ここで流れた情報は、当事者が訂正を求めても、残念ながら完全な訂正などはできない。SNSでもそうだが、デマでもそれが確実に“デマ”だとわかってても、騙される多くは、著名人が“同意”してることに尽きる…特定分野で著名でも、それ以外の分野まで物知りな方が稀であって、著名人として周囲から担がれてるが故に、恥を掻いてても引っ込みつかなくなる訳である。

 

逆を言えば、専門分野での話題において、如何に“学ぶ”かで物事は変わる訳であり、一方的な報道を鵜呑みにせずに、その“裏取”として、自分が得意とする分野の、更に他方面の情報に精通してる人の意見を求める訳だが、ここに“信頼”という名のバイアスが掛かると、事を拗らせる可能性が出る訳で、そこんトコが難しい訳である。ただ…“専門分野”というカテゴライズに絞っている分には、正確な情報を得ることができるだけあって、余分な話題が紛れない限り、信憑性も高くなる。しかし、一般的な人…要は“ヲタク”じゃない人にとっちゃ、頭脳明晰ってのは“全ての話題に精通してる人”って認識があるから、専門分野以外の話題でトンチンカンな応答に対して“バカじゃねw”ってなる訳だし、また、専門分野の話題をやってても、あまりに沼過ぎて“キモい”ってなる訳である。

 

事の“本質”ってのは、案外、マクロとミクロの使い分けが必要な事であり、細かい事で分別すべき点と、俯瞰して全体を見るべき点をゴチャ混ぜにするから訳ワカメになるのである…“御書”の“摂受・折伏時による”と一緒で、基本的なことからズレてないなら、細かいことは気にせずに、話の内容があらぬ方へ飛んでると感じたら、そこで話の中身を再確認して軌道修正を促す…という手順を踏むことで、正確な情報を、更に真相に近付けるきっかけとして取扱うことができるのである。

 

こち亀”の話の中にも、カメラ小僧関連の話の中で、ファインダー越しの事実と事柄の本質に関する話題をやってた部分があったんだが、まさにそれで、被写体としてモノを見る目と、事柄の証明として見る目では全然意味が違うのであり、“芸術作品”として写真を撮るのと“歴史資料”としてでは、同じ場所で、同じ題材の、同じタイミングで撮っても、“同じ作品”にはならない訳であり、まして、アマチュアの偶発的に撮ったモノと、プロが狙いを定めて撮ったモノでは、そもそもの着想点からして違う訳であって、そこを一緒にして叩くのは、失礼極まりない話である。(だからと言って、鉄道沿線の樹木を勝手に伐採したり、利用者を邪魔者呼ばわりする輩は、プロ・アマ問わずに言語道断だが…)

 

 

結局、“情報”そのものが、あまりにも雑多な社会になった事で、自分にとって“都合のいいモノ”以外は信用ならんとしてバッサリ斬る傾向が顕著になってるだけで、本質的に“自分の生活”そのものが、それでどう変化したかってことに関して無頓着だから、“何も変わらない”となるのであって、何がどうなってるかなんてのは、自分自身が如何に“最前線”にいるかという自覚がないと、社会の中で置いてけぼりになるだけである…それが嫌だから他人を叩くのであれば、その結果から息苦しい社会になったのであれば、それが“自分が望んだ結果”ではないか。

観光シーズンの京都市内(洛中)はなぜ、渋滞地獄になるのか?

類稀なる大型連休に、はしゃぎまくって京都観光を計画してる人に対して、苦言を申して悪いのだが、クルマでの移動は、路線バスも含めて地獄見るから、正直オススメしない…てか、地下鉄や嵐電、各鉄道路線以外の公共交通機関がアテにならんのは、京都の道路事情が、景観保全を訴える市民団体によって阻害されてる部分があって、更に、奈良市内でもそうなんだが、道路拡幅工事をやろうとしたら、予定地から遺跡がボコボコってトコだから、変にイジれないって事情があって、なかなか進まないんよね…その上に訪日外国人が関空経由で押し寄せるから、そりゃ、歩道も通行に支障が出る程、渋滞するのは必然な訳である。

 

 

何度もいうが、京都に限らず、奈良も奈良公園周辺やオイラが住んでる斑鳩の郷(法隆寺)周辺も、道路事情が悪い背景には、古の遺跡の上に都市開発をやったからこその悩みってのがあって、歴史的な遺構を残す為の環境保全はもっともでも、それじゃ住民生活はどうやねんって話になる訳であり、故に“市民団体はアホ”っていう感覚が根強い訳である。環境保全の中には、その遺跡と一緒に生活する住民がいる訳であって、住民生活を“犠牲”にしてまで遺跡の保全はやるべきかという問題は、地元の土木関係者の頭痛の種にもなっている。

 

この問題自体、実は堺市周辺も同じで、高度成長期の宅地開発の際、百舌鳥・古市古墳群の多くが、ロクな発掘調査もせずに整地されてしまった訳である。これに対して、宮内庁が“これ以上の都市開発すんな!”と言わんがばかりに、大仙古墳(仁徳天皇陵)を含む、百舌鳥耳原地区周辺に点在する大型古墳を中心に、宮内庁管轄の土地として、考古学の発掘調査すら“お断り”な状態にした訳である。余談だが、実家の近所にある方違神社、あそこの“鎮守の森”っぽく見えるアレは、一部は反正天皇陵だったりしますw

 

話を元に戻すと、防災や減災のための都市再開発事業は、時として“景観保全”を理由に阻害されることがしばしばあるのだが、それが“良い場合”と“悪い場合”ってのがある。前者は歴史的“教訓”から移設や嵩上げを行なった末のモノであって、後者はそれを無視してやったモノである。つまり、過去にその地域が衰亡するかもしれないほどの災害があって、その教訓から行なったインフラであり、その意図がキチンと後世にまで伝わってるか否かで変わる訳である。

 

もっと言えば、土地開発を行う上で重要な事は、“予測不能”な事態を、いかに“予測”するかであり、自然災害“だけ”とは限らない訳である。そのバランス感覚が難しいから、どうしても意見がバラバラになりやすいのであり、その“犠牲”は“誰”が払うのかって部分で紛糾する訳である。“言い分”そのものは“正しい”からこそ、双方が喰い違う訳であり、折衷案では“妥協できない”でモメてるうちに、最悪な事態に堕ちて、“責任“の所在でまたモメるのである…自分自身が“負の遺産”を背負いたくない一心で、逃げ惑うだけである。それ、古の人々が望んだ結果だと思うか?違うだろ、“自分が望んだ結果”だ。

 

 

かつて京都…特に洛中の住民は、明治維新以降の天皇奠都による街の衰退を嘆き、なんとかしてそれを食い止めるために、歴史建造物や古刹にお構いなく、近代設備を次々と設置しまくった訳である。その一つが琵琶湖疏水であり、蹴上インクラインだったり、水力発電所であったり、その電力で路面電車(京都市電)を開通させた訳である。この急速な近代化が進んだ事で、京セラや任天堂のような、IT関連に強い企業が京都を本拠地として構えた訳である。ま、任天堂は元々、かるたや花札といった、今風に言えばガードゲーム製造会社だったのが転じて、家庭用ゲーム機の世界的メーカーになった訳だが…

 

そういう経緯を知らずに、“世界遺産だから”とか、“歴史的な都市だから”といって景観保持を訴える訴える人の、なんと多い事よ…本物の“京都人”が求めるのは、どこまでも“最新鋭”である事。伝統や格式なんてのは、確かな腕のある技術者あってこその話であって、その為には、常に最新のトレンドや知識を求め、開発し続けなければいけない…それを一番わかってるのが、“本物”の京都人の感覚だ。故に京都に科学技術者が集うのであり、京都“市内”では手狭だから精華町城陽市京田辺市等に研究所がある訳である。(で、そのおこぼれが、なぜか奈良市に入る訳で…w)

 

もちろん、開発制限があるからこその“開発”ってのもある訳であり、反発する人の多くは“古き良き時代”を壊される事への恐怖心しかそこにはない…時とともに景観が変化するのは、街が“生きてる”からこその所業であり、変化が少ないのは、成熟し“老いてる”からこその開発限界であり、維持するには、再開発以上に難しい。だけど、それを選んだ以上は、時間がかかろうと“復元”してみろって話である。素材すら時代とともに入手困難になるから、どこかで代替品への変更や復元そのものを諦めざる得ない時がくる。それでもそこにこだわるなら、それ故の保護活動や資材確保が大事になる。

 

 

 

 

話があらぬ方へ飛んだが、要は観光地でありながら道路事情がダメポな最大の要因は、あまりにも来訪者が殺到し過ぎて、キャパそのものがすでにパンクしてても、それをイジれば魅力半減というジレンマである。これ、今後明日香村周辺も問題になってくる部分であり、故に近鉄フリーゲージトレイン開発に関しては、奈良県の観光に関して非常に重要な話になってくるし、京都の事情は他人事じゃないんですよ、奈良県も…いやマジで。