迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

ペットのマイクロチップ装着は、管理上必須。

昨日の国会審議で、ペット(主に犬猫)に対して、3年以内にマイクロチップ装着の義務化が可決成立したんだが、現時点では今後ペットショップでの販売時に義務化するとの事で、今飼ってるペットに対しては強要しないとの事…ただ、熊本地震の時に、チップを装着した7匹のワンちゃんが、(うち6匹が)飼い主が判明し、無事に家に帰れたという。そういう意味では、コレは重要な話。

 

 

実は、競馬の世界では既に導入してる事であり、コレによる管理に移行した事で、検疫や牧場と競馬場の移動の際の手続きが簡素化できた訳で、血統書等の不正も未然に防ぐ目的もあって、特に欧州では、競走馬および競技馬(馬術やショービジネス用)は、装着の義務がある。その為、ディープインパクト凱旋門賞出走に際して、日本馬で初めてマイクロチップの装着が行われた訳である。(それ以前は、そういう規定はなかったが、競馬の国際化が進展した事を受け、フランスで先駆けて導入が始まった)

 

小型犬や猫にはサイズ(直径2mm、長さ10mm)的にちょっと大きいかもしれんが、同型サイズのが馬のコウネ(鬣の生え際部分)に埋まってるんだが、ポニーサイズでも、コレくらいなら邪魔にはならないし、コウネ部分は皮下脂肪が分厚いトコなので、痛点がほとんどない。だから、馬の場合はチップ装着の際でも、苦痛に感じる事が少なく、余程でない限り外れないからコウネに付ける訳である。

 

では、マイクロチップはどうして、管理事業に欠かせないかといえば、管理記録の“ペーパーレス”化と、不正防止の観点からがある。実は、書面管理はいくら厳重してても、関係者が勝手にデータを書き換えたり、偽造コピーを作り出せる事が問題になっていて、特にアメリカではコレによる八百長が頻発してた訳で、それが競馬人気に陰りをもたらす原因となった。フランスの競馬でも、ローカルなトコはともかく、メジャーなドーヴィルやシャンティイでも相次いだからこそ、そして、競馬開催の“国際化”が進展した事によって、参加各国の馬体管理の共通化が急がれた訳であり、そこで言語の訳し方次第では誤解されかねない文言を記載した紙の書面ではなく、15桁のマイクロチップで一元化して管理する様になった訳である。日本でも競走馬は、既にチップ内にデータを取り込んで、血統や生産地、投薬などの治療記録が、常に更新されるようになってる訳であり、獣医師はチップのデータから牧場経営者や調教師、馬主に経過報告を可視化できる様になったし、血統管理も容易になったのである。また、データの共有化によって、海外遠征時の検疫の簡略化が進んだ訳で、専用の機械で読ませれば、それで確認作業が済むという訳である。

 

 

 

 

コレが今後は、愛玩動物にも活用されるという訳だから、おいそれとペットショップで購入した犬猫を虐待したり、勝手に放棄する事もできなくなるって事であり、勝手に逃げ出しても、装着したマイクロチップで“所有者”の特定もできる為、他人様のペットをパクる事もできなくなるという事でもある。当然だが、虐待に対する罰則規定も厳罰化される為、今後は民事の損害賠償だけでは済まされなくなる訳である。それでも、ペットへのマイクロチップ装着に“反対”します?

昨今の僻みの原因…

阪急電車の中吊り広告の件にしろ、桂小枝の“ナイトスクープ批判”にしろ、その背景にあるのは、単なる“僻み”である…ただ、その違いを明確にすると、前者は投稿者が80歳以上の年金受給者にして、手厚い社会保障が受けられる、今の若年層(働き盛り)から見たら“特権階級”の戯言にムカついたモノであり、後者は現場の“環境変化”についてこれなくなった自覚と、自分が思う“笑い”が今でもウケるという自惚れでしかない。共通してるのは、“時代の変化”に対応できない事に対する皮肉であり、特に芸人が自分が降りた番組や企画に文句言ってる時点で“終わってる”と言わざるえない。

 

ま、小枝師匠の件は、ここでは放置するが、高齢者は何を理由に“今の自分”に嘆く様な言葉を選んだのか?そして、掲載された文言で、なんで若年層が批判したのか?そこんトコを考察すると、前回の“シンカリオン  ”ネタに通じるトコがあるのだ。それは、“意図はわかるが、違うそうじゃない”という概念の齟齬である。要は、双方で世間を批判してるが、完全に的外れになってる訳である。

 

恐らく、投稿した高齢者は、ダラダラあてもなく長寿で生きてるより、アクティブシニアとして“生涯現役”でありたいという思いで書いたのだろうけど、それは貧困層で身銭を稼ぐのも困難な人から見たら、究極の嫌味でしかない。20〜30代で年収500万以上あれば、独身であっても裕福で悠々自適な生活もできるだろうが、子育て世代でも、年収300万以下がザラな現代において、“仕事しなくても月50万”は究極の贅沢であり、将来においても“幻影”でしかない…故に“何抜かすんじゃ、耄碌GGI”となるのである。しかしこれをひっくり返して、高齢者視点で若年層の批判を目にすると、どんなにお金持ちになったとしても、社会に“居場所”が無い事の方が、自分自身の感覚として辛いんだと訴えたかっただけの話で、まさか今の賃金形態が、自分が想像する以上に劣悪な状態になってるなんて、想像が付く訳がない。だからこういった“意見の齟齬”が生じるのである。

 

これは何も、こういった世代格差に限らず、LGBTや身障者、難病患者に関する話でも同じで、在日外国人やアイヌ民族の話にも通じる部分である。相互理解する機会はあれど、それで“完全理解”が出来る訳はない…むしろ、誤解や偏見、憎悪が増すだけな場合が多い。無理もない、深く意味を理解せずに、上辺の情報のみで判断するのが関の山で、実情をきちんと把握してるかといえば、1割いたら良い方である…つまり、言葉で理解したと言ったって、“難信難義”である以上、真意が伝わる事はない。

 

 

オイラも今、左眼の光を(治療の都合で一時的ではあるが)失ってる状態だからこそ言えるのだが、他人から“完全失明するかも(ry”と言われても、それは眼科医や実経験がある人が言う分ならともかく、そうじゃない人が勝手を言われると、滅茶苦茶ムカつくし、余計に無茶するだけだと認識してる。見えてる以上、動ける以上は、無理でもなんでも“自分の爪痕”を遺したい、続けたいという意思がある。それが失われない限りはなんだって出来るし、失敗しても後悔はない。何もしなければ長生きできても、それがどれだけ退屈で不幸な事か…だからこその勝負に挑んでるのであって、その先に不幸しかなくても、そこに悔いなんてのはない…自分の意思で“選んだ宿命”だから、ありのままに受け入れ、背負うまでだ。それを批判するなら、勝手にしろ。その立場に、現場にいない事に対する僻みは、自分が“選ばなかった宿命”だ。

“シンカリオン ”から学ぶ、共栄共存のあり方。

噂では、夏改編で打ち切りになるという話が出てきてる“新幹線変形ロボシンカリオン  ”だが、ま…そもそも春改編で終了予定が、スポンサーのごり押し…もとい、新作開発がガンガンズダンダンで進んだ為、急遽放映延長となった訳で、物語そのものがgdgd状態になってる訳で…

 

それはともかく、今週放送の話で、(配信待ちにネタバレしない程度に)かなり深い、そして大人になると、どうしてもブチ当たる“問題”が出てくるんだが、オイラの感覚で結論を出すなら、格差や決別の最大要因は、大まかに言えば、相手への尊厳を、無意識のうちに踏み躙っている事と、その尊厳故に自己犠牲という選択肢になる事である…つまり、口で“共栄共存”を唱えたトコで、それを実現するのに、“他者の廃絶”という矛盾と、自分にとって“大切な存在”を守りたい一心で自らを犠牲にする事の本意が、結果として付き纏う“問題”となる。もっと言えば、社会共産主義を唱える人程、“自己の正義”に凝り固まって、結果、理念が合わない相手を排斥したり、自分の意見のみをごり押しして、人心掌握に躍起になった末に、組織崩壊を招く元凶となる訳である。

 

SEKAI NO OWARI の“ドラゴンナイト”って楽曲に、戦う相手にも分相応の“正義”を掲げて刃を交えるという主旨の歌詞が出てくるんだが、まったくもって、その歌詞通りに、人それぞれの“意思”があり、それぞれの“正義”は存在する…宗教間での諍いとて、そもそもは宗派に関係なく共通する理念が根底にあっても、宗派が幾多も分離する度に、その“根幹の理念”の解釈にズレが生じる訳で、その要因も、指導者が掲げる“正義”の方向性が“どこに向いて説いたか?”で歪んでくる訳である。そこを理解し、全てを“ありのまま”に受け止めて包み込む事を説いたのが法華経の肝要であり、これを悟るのは、いかなる賢者であっても“難信難解”と釈尊は弟子檀那に説いた訳である。だから、日本に仏法が伝来した時でさえも、法華経が最上位の経典という認識はあれど、その意味まで解説できる僧侶が皆無だった訳であり、故にチベット仏教よろしくな簡略した、形式だけの儀礼だけになった訳である。

 

主人公は、日蓮仏法でいうトコの“異体同心”という概念を、言葉ではなく態度で示したのに対し、相手が示した態度は、その真逆…自分の意見と同意である事を期待して、且つ、過去の歴史や技術の“否定”に走った訳である。それは、確実に“共産革命”を謳い、多くの民衆を惨殺していった、東欧やソビエト連邦ポル・ポト派等のやった行為と全く同じである。規格の単一化は一見すると便利そうに思えるが、環境や事態の変化に即応できる能力が乏しくなる。

 

だから、新幹線も東海道・山陽の国鉄時代からの単一規格ではなく、JR東日本管内の新幹線は多種多様な形式の車両開発が行われ、特にE7(W7)は走行途中で周波数変動(50hz⇄60hz)に対応して、且つ、急勾配でも速度を維持して走れる車体構造になっている。また、九州新幹線の800系も、ドクターイエローが走行しなくても、架線や線路などの設備の不具合を司令室に感知・通報するシステムを搭載してる為、定期運行で全てをカバーできる体制になっている。

 

更に、新幹線車両開発5社の中でも近畿車輌は、親会社が近鉄だけあって、各種特急車両の製造ノウハウをフィードバックできるだけでなく、様々な軌道に合わせて車体を製造してるからこそフリーゲージトレインの試作を計画してる訳である。(表向きこそ、橿原線から吉野へのダイレクト輸送に適した車両の開発って事だが…)つまり、経験値を稼いで新幹線の“新しいカタチ”を、今でも模索してる訳である。

 

 

話が鉄ヲタ方面に飛んだんで元に戻せば、共栄共存の可能性に関しては、個々の案件で示し合わせているのに齟齬が起きるのは、自分自身を“絶対正義”に位置付けて物事を考えるからこそであり、立場や振る舞い方ひとつで、様々な可能性が模索できる事、それに伴う犠牲を如何にして最小限に抑えられるかが決まるのに、そこを“全否定”すると、自ずと解決の糸口を潰す事になる。“知らない”を知る事は、様々な知識を吸収するきっかけになり、そこで知り得た知識をうまく使いこなせば“知恵”となり、経験値が増えれば、更に“新しい概念”への進化を遂げるのであり、そこには“終点”は存在しない…“タイセツナモノ”を純粋に“守りたい”と思ったからこその決断で、その先に悲劇しかなかったとしても、それを悔やんでいたら“未来”はずっと遠いままだ。物語が今後、どういう結末を迎えるかを、最後まで見届けたいものであるw

カンテレとラジ関の“理不尽”な事情、KBS京都の“自由奔放”な事情w

先月のGWにラジニケが放送した“実況アナウンサー大放談”の2日目と3日目で、関西他局代表として、パエリア仙吉とサワブー、コーケンが登場して言いたい放題やってたんだが、この中で、コーケンがラジオブースでwktkしてたと黒米が言ってたが、ま…出身大学の放送研究会でラジオDJの真似事やってて、将来ラジオ局で喋りたかったという旨の話をしてたから、あながち、早い時期にOBCKBS京都が拾うんじゃないかと…w

 

それはさておき、コーケン世代だとカンテレの開局の歴史に関して中途半端にしか学んでない可能性がある。てのも、カンテレも開局から60年も経過した放送局だし、まして余程でないとKBS京都との関係を知る由なんて、イトマン事件関連の存廃騒動が起因だと勘違いされても仕方ない。当然だが、このはてブ読者で過去の“我ラジ”アーカイブ読者なら知ってるCRKラジオ関西との関連性なんて、今の30代以下が理解するには、非常に難解過ぎる。だから、番組放送中に“大先輩のきよぽんに聞け”とSNSで発した次第である。

 

この一言で勘付いた人、もうお解りですよね?そう、カンテレ開局から暫くの間、アナウンス研修の一環として、CRK(当時はラジオ神戸)のラジオブースに入って、ラジオでの仕事に関する研修もやってた訳で、きよぽんや塩田アナクラス(征平ちゃんもギリだったっけ?)は、必ず当時須磨にあったCRKのスタジオで(電波には乗らないものの)喋った経験があった訳であり、後にきよぽんがFM大阪ラジオパーソナリティーとして音楽番組を担当できたのも、(番組スポンサーがJRAだったのも踏まえたら)そういう“伏線”があったからです。

 

コレは、このはてブでも散々解説した、カンテレとCRKの“経営統合”計画があったからであり、コレがご破算となったのが、某オレンジ兎球団関連のいざこざの所為である訳で、それがなかったら、“絶対虎至上主義”サンテレビが誕生することはなかったし、OBCとの結び付きもできなかった…っていう経緯がある。またKBS京都も、カンテレ開局の“生みの親”であり、開局時にCRK程でなくても社員を出向させている。ただ…CRKがあまりに“神戸に関西基幹局を”とがっつくから、KBS京都…というより、親会社の京都新聞社が嫌気さして、だったら“京都の民営放送局”の矜持を維持しようとして、地域局という色合いを強めた訳である。

 

しかし…その概念が“裏目”に出たのが、あのイトマン事件からの存廃騒動である。この時に多くの社員が給料の未払いや休日出勤の強要等を理由に退社し、そのうちの一人が、現在はフリーでCSとかのプロ野球中継やOBCで競馬実況に勤しむ濱野アナであり、寺西アナも一時期、KBS京都での仕事を離れた。(現在は寧ろKBS京都を中心に、スポーツ実況やってるが…w)どうにか総務省に京都所縁のタレントや著名人等が嘆願書出して、首の皮一枚のトコで踏み止まり、経営の立て直し策に手を差し伸べたのがカンテレであり、テレビの部門に関しては、カンテレから社員を派遣し、番組制作を行った訳である。だから一時、お杉や征平ちゃんがKBS京都のテレビ番組でレギュラー持ってたり、かつての“エンドレスナイト”のスタッフが(当然、ばんばひろふみ込みでw)破茶滅茶な事をやった訳です。

 

先日の“よーいドン”で、月亭八光今出川駅周辺をブラついて、途中でKBS京都のラジオスタジオに乱入したのも、その“伏線”として、こういった経緯が、八光の証言以外にも存在してた訳であり、警備云々ではなく、相手が“カンテレのスタッフ”だったって事からの乱痴気だった訳です…つーか、それ以上に、ローカルなトコで関西の放送局って、こういう“カチコミ交流”好きだよなぁw

 

 

ま、あの騒動の一件があって以降、KBS京都のアナウンサーが“自由奔放”な状態に拍車が掛かったのは言うまでもなく、その際たる存在が、現在だとサワブーなんだが、昔も正直、名前は伏せますが、結構破天荒なお方がいらっしゃいまして、競馬実況に限らず、様々なトコでいろいろとやらかしてるんですわ、コレがw あ、ちなみにサワブーの声や姿を確認したい人は、レンタルビデオかストリーミング配信で“鴨川ホルモー”を観賞する事を推奨しときますw

 

“褒める”は上手に“叱る”事が出来てこその話…

川崎市の通り魔殺人事件といい、練馬区の元エリート官僚が実の息子を刺殺した事件といい、一連の報道を見聞してると、どうも被疑者や殺された息子が“ひきこもり”だからと責め過ぎちゃいないか?悪いが、彼等に共通してるのは、親や親族といった、周囲の大人から邪険に扱われ過ぎた事と、自分自身に対する“他人の評価”に振り回されて居場所を失った上に、それを詰られた結果、世間そのものに疑念を抱き、その矛先を、川崎市の件では被疑者は親族が通ってた私学の子供達や保護者に、練馬区の件では殺された息子は両親に向けた訳である…用意周到以前の話だ。

 

劣等感なんてモノは、人間である以上は誰でも抱えてる“心の闇”だ。でも、その大半は、単に他人の才能や環境が、自分の中で勝手に“理想”として描いた妄想でしかなく、それを僻むか、近付ける為に抗うかで結果が変わるのであり、他人の価値観に合う合わないなんてのは、些細なモノでしかない。だけど、そこを理解し、指導できる人は、この日本ではごく稀で、まして教育機関全般は、そもそも学生・生徒を“学力の均等化”ばっかり目指すモンだから、いわゆる“規格外”な子供は、簡単に学校内で“仲間外れ”状態になる。つまり、学校内いじめの温床が、この時点で出来上がってる訳だ。しかも、子供にとって両親の“世間からの格付け”が、そのまま“自分自身の身分の格付け”と見做すトコがあって、公立学校に通う子供の多くは、それ故の劣等感がそのまま付き纏い、私学でも、学力による格差がそのまま、人生そのものに影響を与えるとあって、それによる親(特に普段、育児放棄してる父親)からの叱責が要らん恨みを抱える遠因になる。

 

そういう若さ故の“承認欲求”を巧みに利用して、凶悪犯罪の手先に若者を仕立てたのが、日本で言えば日本赤軍とか革マル同盟、オウム真理教といったテロ行為に至った集団であり、世界に目を転じれば、イスラム教の異端であるIS(イスラミックステート)系のテロ組織であったり、キリスト教徒でもローンウルフな猟奇殺人鬼がいる訳である。つまり、自分を蔑ろにした世間に対して報復し、自分の存在そのものを認知させ、自分の中にいる“神的存在”に“褒められたい”からこそ、他者からしたら“蛮行”でしかない行為に至る訳である。以前にもオウムの件で、ここでも取り上げたかと思うが、法の下で極刑になっても当人らには関係なくて、やった事自体に“目的達成”してる訳である…だから、反省の弁も無ければ、むしろ被害者遺族や公安当局、国家そのものを嘲笑ったまま、刑に臨む訳である。

 

真の指導者ってのは、叱る時はガチで怒り心頭に罵る…でもそれは、単に相手を叱責してるのではなく、指導者として“相手の人生を狂わせた”責任を背負い、自分自身をブン殴る為のモノでなければ意味がない。だから、“叱る”前に“褒める”事も踏まえた上で激昂するのであって、結果的に相手に恨まれたり、嫌われたとしても、相手が“本当に叶えたい事”に到達した時には、我が事の様に喜び、讃える訳であり、たとえそれで失敗して、どん底人生に落ち込んで悩み苦しむ時は、さりげなく声を掛けて一緒に泣く…たとえ遠く離れたトコにいても、常に“相手を想う”一心のみで“自分の居場所”を示し続けるのができる人である。その好例が“闘将”星野仙一であり、中日でも阪神でも、そして楽天でもリーグ優勝や日本一になる事が出来たのは、叱りつけた以上は結果を出したら大袈裟な程に選手を労ったからである。

 

 

感情に任せて怒り狂うのは簡単だが、その後相手を慰め、褒めるのは一番難しい…自分の“思い通り”にならない理由を他人のせいにするのは簡単でも、その原因が“自分だ”と認める事ができる人は皆無に近い。そして、自分と“無関係”な人の幸福を、素直に祝える人程、他人の“不幸”に無条件で涙を流せる人程、お人好しな人はいない反面、そういう人情派な人の叱責は、他の誰よりも精神的に痛いけど、暖かい。それを他人に求めるのは、正直、間違いだ…“誰か傍に居てたら”ではなく、自分自身がそういう存在になりたいと願い、精進してこそ、初めて救済できる事であって、その概念なしで“他人事”にしてる以上、誰も救えない。だから、相手を叱った以上は、自分が相手に対して“人生の模範”となる行動を常に見せるべきであり、褒める時は、些細な事であっても自分以上に労い、慰める時は先に謝罪する気持ちで、何も言わない事に尽きる。それだけで、存在を認め、心の居場所と避難所を得る事ができ、最悪な状況でも落ち着いて行動できるのである。そういう“指導者”になりたいと願い、苦難に立ち向かわない限り、こういう事件はこれからも増えるでしょう…

 

新交通システムの事故にまつわる推察…

ふぅ…手術から一週間は、眼を安静にしないといけなかったんで、情報を得ても、なかなか呟けずに不貞寝してましたw ま、本調子にはほど遠く、ガスの代わりにシリコンオイルが左眼に注入されてるんで、再手術の予定があるんだが、とりあえず今、iPad air2片手にネタ仕込み…

 

 

先週末、横浜シーサイドラインが逆走して、15人程重軽傷者が出たが、一報を聞いて真っ先に思い出したのが、26年前(1993年)のニュートラム暴走事故だ。オイラ自身は事故そのものに遭遇する2本前の列車で住之江公園駅まで戻ってたから、バス停前の歩道橋付近で騒動に気付いたんだが、アレはガチでヤバかった…1ヶ月以上、不通で代行バスによる通勤は、正直地獄である。

 

それはさておき、この時の事故原因は、事故車両の基盤がショートした事による通電不良からの制御不能であり、仮に有人運行であっても、制御出来たか定かじゃない事故だった。というのも、コレはエエ加減な整備からの事故であり、この時に車両の老朽化も指摘された訳で、コレを期に新車導入が急がれたとも言える訳である。また、新幹線同様の集中管理による運行方式を採用し、自動運転なのは、運営コストを少しでも削減する為に、運転士乗務をやめて遠隔操作で運行する事にした訳である。この新交通システム方式は、1981年のニュートラムと神戸のポートライナー開業を皮切りに、大都市圏を中心に開業した…横浜シーサイドラインは、開業が1989年との事なので、技術的にはニュートラムより若いといえど、実質は同レベルと考えていい。

 

今回の事故は、急発進でもないし、逆走で車止めに突っ込んでる時点で、事故の怪我人が少ないのは不幸中のWiFi…もとい、幸いと言える訳であり、ニュートラムの事故の教訓があってこそ、車止めの性能が向上していて、衝突の衝撃が結構抑えられたのは、いうまでもない。しかし、車両故障に関して、遠隔操作では感知しにくいという欠点は、ニュートラムと同レベルだとしたら、今後も課題となる…有人運行である新幹線でも、現場と司令部で齟齬があったら重篤な事故になりかねず、事実、山陽新幹線での台車破損も、東海道新幹線での車輪の変形でも、センサーの検知を誤報として見逃した結果生じた“重大事故”である。(ま、メーカーのデータ改竄や整備不良も一因にあったんだけどなw)

 

では、なんで遠隔操作では、故障や不備があっても対応ができないのか?簡単に言えば、機器類のエラー信号を“信用してない”からであり、更にはエラーそのものを“過小評価”してるからです。重篤な事故の多くは、実は故障や不良の些細なエラーを、“大した事はない”という経験値からの誤診であり、いわゆる“狼少年症候群”に陥ってるのが全てです…実際、去年の西日本豪雨で広島や岡山で被害が甚大だったのも、気象庁自治体から土砂災害警戒情報が散々流れても、避難しなかった人が多かった訳で、避難指示にすら従わなかった住民も多かったのが要因の一つになっていた。コレと全く一緒で、故障を事前に感知して部品交換や修理など、機器が警告を発していても、利用者の自己判断で、あるいは修理・交換費用が“勿体無い”という理由のみで、勝手な部品交換や素人修理を繰り返して、結果、重篤な事故を引き起こしては“メーカーが悪い”とか、“法律が企業に忖度してる”などとイチャモン付けて、自分の非を認めない訳です。

 

話が逸れたんで元に戻すと、昨今の機器類は、たとえ軽微な故障や不備でも、自己判断で早期にエラー信号を発して、事故を未然に防ぐ為のメンテナンスを促すようになってるんだが、製造元の“親切心”も、使用者からしたら“大迷惑”な話で、どうせなら“メンテナンスフリー”な上に恒久的に使えるモノを作れって訳であり、そうすれば減価償却でモトが取れる算段で話してる訳である。つまり、運行会社が新交通システムに求めているものとは、安価で利用者にサービス提供できる交通インフラとして、上記の条件…メンテナンスフリーで恒久的な公共交通機関の仕組みであり、建設費や消費電力、沿線の騒音対策といった、公共交通機関の宿命があるからこそ、どうしても無理難題を開発技術者に要求せざるを得ない訳である。

 

 

もっと言えば、運行中は出来るだけ人員を、駅や電車内に配置せずに、夜間も保線や点検に人員を捌かなくていい状態にしたいからこそ“自動化”であり、“機械化”していったとしても、最終的な管理は人間の判断と行動が全てです。そこを勘違いして運用してたのであれば、事故は必然的に発生します。ニュートラムの事故も、結局はそれが一番の“欠点”であり、それ故の事故だった訳であり、今回の事故も、恐らくは定期検査で、運行プログラムや基盤にエラーがあった可能性があるにもかかわらず、それを無視して運行してたなら、完全な人為的ミスであり、ニュートラム事故と一緒です。

 

 

ここまではあくまで、オイラ自身の推察に過ぎない話ではあるが、新交通システムそのものは、既存の鉄道や路線バスと違い、余程な事がない以上は人身事故が発生しない、優れた公共交通機関です。しかし、運行会社局が杜撰な管理をやってる様では、いずれ甚大な事故を引き起こしかねません。その点だけは、ほかの公共交通機関と差異はありません。

マナーの多くは、“おもてなし”の本意を悟る事…

マナーレスの所業が、いろんなトコで散見されるが、これは結局、“お客様は特別な存在”という、勘違いも甚だしい概念による弊害と、オイラは考える。

 

 

そりゃ…特別な事情で待遇を受ける事は、世間的にも、あるいは親友や関係者としても誇らしい話だし、羨ましく思えるかと思う。けど、それは、自分を“招待した主人”の心意気でやってる事であり、決して“客人が上”ではない。つまり、主人と客は“対等なる存在”であって、分相応の対応として、食事や宿泊等の接遇をやってるだけに過ぎない。当然だが、コレはいかなる接客業務も一緒で、小売店は商品を求めて訪れた他人相手に、商品情報の開示や試用を受ける訳であり、運輸関連であれば、安全に乗客や貨物を目的地まで運ぶのが、仕事の一つである。故に利用者に対し、分相応の対価を求める訳であって、それが“価格”として表記してある。勿論、生産農家や飲食業なども、基本は同じ。

 

コミケ等のフリマ系マナーレスは、この“価格”の部分で文句言うのが多い訳で、そこには、生産者を労う気なんてさらさらない訳である。だから平気で値引き交渉をやろうってなるのである。特に手作り雑貨…手芸店での元値に上乗せして頒布するのはけしからんという批判は、正直、作家に対して失礼であり、また、仕入れ先の手芸店や機材メーカーに対して、正当な取引を阻害する行為に該当する。こういう態度で“俺は客だ文句あるか”と店先で怒鳴れば、他の出店者や客人が嫌がって避けるのは当然だし、作家もやる気を失くす。今の日本経済がボロボロなのは、その悪態が巡り巡った結果である。

 

話を元に戻して、マナーが存在する本意とは、それ即ち…互いを敬い労う事に尽きる。つまり、一般的な“おもてなし”とは、わざわざ御足労かけて訪れた相手に対し、礼を尽くす事であり、自分を受け入れる為に店主(主人)がわざわざ用意したサービスに対して、分相応の対価を払う事である。だから、“ゴルゴ13”にしろ“ブラックジャック”にしろ、成功報酬には法外な金額を要求する訳だし、それに似合う結果を生み出す為に尽力する訳である。経済の至極も然り…経営者は“主人”である以上は、幕下の就労者に対して報酬を与える義務があり、就労者は“顧客”である雇用者(経営者)に対し、報酬の対価として自分の人生を“労働力”として売り捌く訳である。この概念を無視してやってたら、いくら商売繁盛で事業拡大を急いでも、人材尽きて経営破綻待った無しであり、逆に自転車操業で、いつ倒産してもおかしくないベンチャー企業でも、ここの部分がしっかりしてたら、多方面からの信頼を受けて収益も上がってくる。

 

つまり、様々な場面で遭遇するマナーの多くは、そういった社会の“支え合い”の根幹であり、互いを敬う事で“対等なる存在”として扱う為の所作である。一見堅苦しい作法でも、そこには、“主人”と“客人”という“対等なる存在”として双方が敬う為のモノであり、単に形式だけにとらわれてはいけない。流派による差異があっても、互いの“気持ち”を尊重し合う為に、まずは“手順”として学ぶのである。だから、マナーは一方的な感情で強要するモノではなく、相手を指導した以上は、自分もまた、相手に対して礼を重んじる姿勢を見せるのがスジである。コレが、マナーの本質である。

 

 

 

本当に“特別な存在”であるなら、施す主人も、受ける客人も、分相応に労い、尊敬し合い、そして丁重に扱う…しかもその“理由”を双方が理解した上でやるのがスジである。そこを無視して“マナーレス”批判は、結局は自分自身の、存在価値や意義の“否定”でしかない。相手の身分や立場、年齢や学歴で卑下して罵倒する事の、なんとも滑稽な事…教養も、単に覚えてるだけじゃ“無駄知識”であり、それを生活に活用できて意味を成す。茶道や華道、“道”が付く教養の所作とは、上下貴賤なく“対等な存在”として相手にする為の基本を学ぶ場である。だから、芸術の道はもてなしの基礎であり、武術の道は手合せに付き合う相手への感謝が所作となる。宗教の礼節もまた、いかに親しい関係であっても、互いに謙虚であれ…と、説くのです。