迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

“女人禁制”には分相応の理由があるw

皆さま、期日前投票はお済みですか?まだの方は…

 

全国どこでも\山本かなえor公明党

大阪だったら\杉ひさたけ/

兵庫だったら\高橋みつお/

福岡だったら\しもの六太/

愛知だったら\安江のぶお/

神奈川県なら\佐々木さやか

東京都民は\山口なつお/

埼玉だったら\矢倉かつお

大事な一票、小さな声も逃さず国政に反映させる行動力、信頼と実績の公明党に託してください‼︎

 

はぁ…投票日前日まで、ネタ出しの際はこのテンプレが表示されますが、ご了承くだされw

 

 

 

 

 

 

さて、今回の話題は、一部の極左指向のメディアが持ち上げてる、“子育て知らずなオヤジ会”の活動内容を読んで、なんで“女人禁制”のしきたりが、未だに日本の祭礼には存在するのかを、ちっとも考えたことがないんだなぁ…って思う次第である。一見すると“女性軽視”なしきたりにも、その歴史変遷や背景を鑑みた時、一概にそうではない事に気付くこともある訳で、何でもかんでも“女性参画は世界の主流”と叫べばいいってモンじゃない。ちゃんと“理由”を精査すれば、自ずとそうならざる得なかった“事情”と、時代錯誤になってるにも関わらず変更できない“理屈”ってのが、明らかになる。

 

今月、京都市内…いわゆる“洛中”では、1ヶ月がかりの夏越の祓でもある祇園祭真っ只中な訳だが、今は長刀鉾のみに継承されている、ちょっと変わった儀礼がある。それは、鉾に乗る稚児の世話は、前祭山鉾巡行までの間は、町内の男衆のみで一切行うというモノ。表向きの言い分として、祭礼の際は“女は穢れ”とされる為だが、現代の感覚に則せば、地域での子育て促進の為と、伴侶を失ってからの自立に備えた訓練の意味がある…なんせ、普段包丁を持たないおっさんや、掃除もロクにできないヤンキーが、たった17日間といえど、3人の稚児相手に寝食共にして精進潔斎をやる訳だから、女性の助けを求めたくても、“女人禁制”を課した時点で、自分達自身でやらなきゃいけない訳である。つまり、炊事も洗濯も、部屋や周辺の清掃も、何もかもを“男手ひとつ”でやらねばならない訳で、料理担当が味音痴だと最悪だし、洗濯機の使い方や洗濯物の干し方などがヘタれな人に任せると、巡行当日までが思いやられる事に…今でこそこの風習自体は長刀鉾だけになったが、かつては全ての鉾町に稚児を用意してやってたから、この時期だけは町内の女衆が自分の旦那や恋人、家族の男性陣を生暖かい目で見てたやらである。(なんせ普段は女房や母親に任せっぱなしだった家事全般と育児を、この時期だけ、全部やらなきゃアカンからねw)

 

祇園祭に限らず、“女人禁制”な祭礼には、多くの場合は単に禁じてるのではなく、作法の関係での“安全対策”の面から、女性を遠のけてるのであって、故に、過去の祭礼での“事故”において死傷者の多くが男性なのは、その“結果”である…つまり、祭礼の怪我は、男性なら“度胸試し”の結果として付いたモノとして流せても、女性だと“縁起でもない”とされるのは、生涯にわたって怪我を負わせた責任が問われるからであり、それを事前に防ごうと思えば、身の危険から遠ざけた方が“簡単”だったからです。もっと言えば、仮に、体力的に“霊長類最強”であっても、女性である以上、顔や身体中に傷だらけになる姿は、男性からしたら“居た堪れない”という心情からの“配慮”なのです。当然、“ブサイク”の原因が事故や事件(強姦や暴行等)だったら、余計に男性からすれば心理的に辛くなるんです…自分自身の落ち度として。それを避ける為に、女性が祭礼に関わる事を禁じてるって訳です。

 

同じ理屈は、修験道密教系宗派でも然りで、そもそも、高野山比叡山が南海や京阪が鉄路を拓くまでは“女人禁制”だったのも、表向きこそ“修行の邪魔”って事でも、実際問題は、参詣道に問題があったからです…そう、険しい山道を登るのは、それこそ江戸時代中期までは、男性でも健脚自慢な人でも登り切るのが難しい場所でした。以前も解説したが、今でも大峰山修験道が“女人禁制”のままなのは、ボルタリング経験者でも危険極まりない崖を歩く上に、滑落事故が起きると、男性でも助かりません。逆に、熊野三社が女性でも参詣できたのは、それこそ参詣道が整備され、体調に合わせてコースが選べたという強みがあったからです。つまり、“女人禁制”を課してないトコは、昔から交通インフラや社殿仏閣での受け入れ態勢が万全だった証左であり、その真逆なトコ程“女人禁制”で安全対策を行ったと推察できるのです。

 

逆に“男子禁制”にしてる祭礼や儀式、しきたりには、どんな意味があるのでしょう?コレも簡単に説明すると、表向きは“男は信用ならん”とする事で、全ての工程を女性のみで進める意味があり、裏では男手不足に備えた訓練の意味も存在する訳である。もっと言えば、勘違い野郎から身を守る為のシェルターとして、社殿仏閣を利用する為の話であり、故に尼寺の多くは“男子禁制”であると同時に、単に信仰の場というよりも、社会復帰に向けた訓練の場であり、それ故に境内に作業場が設けられていて、そこで“職人”として腕を磨いて、生活の自立支援をやった訳である。

 

 

 

 

 

 

以上を踏まえて“女人禁制”や“男子禁制”がある理由を考えると、単に時代錯誤なモノではなく、キチンとした理由が、過去にあった事案を基にして設定されてるのであって、そこの部分をどう見直すかで、自ずと答えが見えてくる。つまり、日本相撲協会が巡業中のトラブルで緊急事態だったにも関わらず、体裁保持を優先にした態度は批判されて当然な話だった訳であって、それを“理由”にして平素でも女性首長が土俵に上がれないのはおかしいというのは、完全に話が別問題。また、女性専用車両に男性が乗ったとしても、ヘルプカードや白杖等、明らかに身障者と判る状態の人まで排斥するのは本末転倒。(特例で、体調不良や身障者は、男性であっても利用可能)まして、時間や運用区間が指定されてる場合、区間外や時間外なら女性がピーキャー言う筋合いはない。当然、そういう設定の経緯には、分相応の被害実態があったからこそで、疑念がある以上は仕方ない訳である。そこを弁えずに騒ぐのであれば、それが最大の“元凶”だからこその排斥である事に気付かなければいけない…“自己の正義”に固執する行為は、自ら社会との隔絶を望む行為と同意だからだ。

IRがいらないなら、経済発展に何が必要?

本題に入る前に…7月21日は、参院選投票日です。賢明なはてブ読者、および、オイラが学会員である事をご存知の方、もう、言わなくてもお察しですよねw てな訳で、

 

全国どこでも\山本かなえor公明党

大阪だったら\杉ひさたけ/

兵庫だったら\高橋みつお/

福岡だったら\しもの六太/

愛知だったら\安江のぶお/

神奈川県なら\佐々木さやか

東京都民は\山口なつお/

埼玉だったら\矢倉かつお

大事な一票、小さな声も逃さず国政に反映させる行動力、信頼と実績の公明党に託してください‼︎

 

 

 

とまぁ…毎度おなじみ国政選挙シュプレキテンプレはここまでにして、今回は、某野党候補の頓珍漢な街頭演説の中身に対して、“オマイは議員になる前に、もうちょい社会科と経済学を勉強し直せボケ”というツッコミを…特に、関西圏へのIR誘致に関する批判の的外れっぷりについて。

 

そもそも“IR”と言っちゃうから勘違いする人がいる訳だが、コレ、簡単に言えば複合型観光施設の略であり、具体例で言えばTDR船橋競馬場ららぽーと幕張メッセZOZOマリンスタジアムを統合して、包括的に運営を行う姿を想像した方がピンとくるかと思う。関西圏で該当するならそれこそ、USJ海遊館インテックス大阪、住之江ボート、京セラドーム大阪を包括運営するイメージで考えると、なんでそれを2025年開幕の大阪(関西)万博後に誘致しようと言ってるのか、ちょっと理解できるかと思う。つまり、各施設の位置関係が悪いと、訪日外国人や国内旅行者の“取りこぼし”が発生し、日程的な“無駄”が生じる訳である。リゾート(滞在)型観光地として再開発するには、交通インフラの整備は当然としても、その移動が大型キャリーバッグをズルズル持ち歩くのは、観光客も地元住民も“大迷惑”な話。だからこそ、安心して荷物を預けて小旅行ができる施設が必要って訳である。

 

で、あくまでメインは大型免税店…ショッピングモールであり、候補者が言う賭博場(カジノや公営競技の場外発売所等)ってのは、付属のテーマパークや劇場等の観覧施設なんかに比べたら微々たる空間であり、そもそも訪日外国人向け施設として整備する時点で、全国の旅打ち野郎や地元住民は対象外だ。(ネット投票で買える時点で、場外発売所自体、減少傾向に向かってるのにw)また、会場整備や施設内の売店での接客業、清掃業務等、IRを誘致してキチンと運営していけば、若年層のみならず、いわゆる“アクティブシニア”と呼ばれる65歳以上の健康で体力に余裕ある高齢者の雇用も算出する事ができる…これを“外資系だから”とか、“ギャンブル依存症が増える”とか、支離滅裂な事を言ってる時点で話にならん。ま、共産系の思考の持ち主によくある、“大富豪憎し”故の妄語なのは明らかだし、そもそも共産主義そのものは、民主主義の行き着く先にある“共栄共存”の理想型の一つであって、その前提は、富裕層は富裕層だからこその役目があって、最前線で苦労してる労働層や貧困層を救済するために散在する義務がある…が、それは同じ様に労働階級や身障者を含むハンデ持ちも、分相応の社会貢献を約束し、行動できてこその話だ。つまり、共産主義の本意は、宗教概念における“等価交換の理”から逸脱してはならないのであり、それ故の市場における競争原理をも否定する事は、断じてやってはいけない行為である。そこの部分までも“否定”して、単純に大企業に重税を課せとか、与党の忖度気質はけしからんとか言ってる時点で噴飯モノであるw

 

何度も言うけど、グローバル化した社会において、他人を批判するのは簡単でも、自分が思う“正義”による行為によって生じた“負の結果”に対し、その“責任”はいつの時代でも子孫が払わざる得ない…その理由は、本来であれば“次世代”に託すべき事案を全部食い荒らして、その上で放棄し、逃げたからだ。これは日韓関係でもだが、日本政府としては“既に解決済み”の事案にしてても韓国政府と関係なく、市民団体が勝手に日本企業や日本政府に喧嘩を売るのは、韓国政府自体が国民に対してキチンと賠償しなかった事と、根底にある“富裕層憎し”の思想が何処かにあるからと推察できるのです。つまり、“被害者を敬え”というウエメセ態度の正体は、道徳観の欠如と誤認です。だから、日本人に対して無意味な“因縁話”を突き付ければ、すぐに多額の金銭が懐に入ってくるという既成事実を長年続けた結果、少しでも経済が狂えば“日本のせいだ”としとけば、今までなら“安泰”だったからこそエスカレートしていったのです。とはいえ、事実誤認してはいけないのは、こんな事で二国間の関係を拗らせて喜んでるのは、いうまでもなく、間違った共産主義を正義とするごく一部の輩です。これも何度も言いますが、共産思考に凝り固まってる人程、自分以外の意見や存在を良しとせず、排斥に走り回る愚か者です。それが自分自身を一番苦しめてるとも知らずに…

 

 

 

話が完全にブッ飛んだんで元に戻すと、日本の中小零細企業は、大企業からの大口発注があって成り立ってる製造業と、ライセンス(製造販売許諾)を受けて行なっている小売業が殆どで、ごく一部は、大手から独立したベンチャーだったり、元々家内工業で細々と高品質なモノを作ってる工房だったりします。言い方を変えれば、ベンチャー系や職人工房の類は、海外バイヤーからの仲介で仕事を得ることが出来ても、大手上場企業の業績次第で売上が左右されます。仮に大手企業に多大な重税を課すのであれば、その影響をモロに受けて倒産するのは、下請け・孫請けを行なっている中小零細企業自身です。まして、世界規模のシェアを占める技術がある特殊系の企業でも、国際問題が因で倒産する危険性も、モノによっては存在します。その為の“社会保障”として国が補填するとしても、その“財源”が税金だったら、どうします?つまり、そういうことです…ここの部分までも批判してる訳ですから、オイラからしたら、話にならんわって訳ですw(まして、未だに森友問題出して騒いでる時点で、もうね、ネタが切れたんだなって感じしかないんだよな…いつの話だってのと、それをほじくり返してると、ひっくり返るのは野党の方ですぜ、関西●コン絡んでる話という話もあるから、あれ…)

 

ヴィーガンの言い分は聞き飽きた…酪農をバカにする者は、精神が病んでいる。

Twitterで炎上騒ぎになってる、とあるヴィーガンのバカ発言。牛乳や乳製品の製造過程として、乳牛の虐待があると発言してる様だが、そもそも、食糧である家畜の肥育において、虐待なんてのはもってのほかであり、衛生管理や品質の向上を是とする酪農家を、見下してる時点で話にならん。まして、豆乳やココナッツミルク等の植物性代替乳は、製造したその場で消費しないとすぐ劣化する程品質管理が難しく、パック詰販売されてる既製品の多くは、開封後はその日のうちに消費しないと、牛乳以上に食中毒を起こしやすくなる。故に、長期保存可能な植物性代替乳の多くは、水分を抜いた粉状であり、無調整だとカロリーの割に栄養価が低い。ぶっちゃっけ、豆乳も豆腐に加工出来る濃度のモノになると、モノの数時間で凝固し、腐敗するから、豆腐屋の店頭で販売してるのを持って帰るのは、食品衛生上、危険極まりないんよね。

 

 

 

では、なんでヴィーガンは肉食を批判するかと言えば、凄く簡単な理屈で、肉類は人間以外の動物を屠畜(とちく)して得てるからだという、“命の尊厳”を履き違えた言い訳をしてるだけである。確かに、動物の命を奪わないと、美味しい肉は得られない訳だが、だとすれば、植物とてまた然りであり、人間が貪る為に存在してる訳ではない。果実や種子も、そもそもは次世代に子孫を残す為のモノであって、故に糖質や脂質が高い。草食動物が穀類や豆類を食べると、必要以上に体脂肪が付くのも、植物のみで栄養を摂取する仕組み故の話であり、馬にとって枝豆や玄米なんて、人間で言えばリブロースグリルや中トロ炙りを口にしてるのと一緒である。

 

植物だって“生物”である以上、ヴィーガンの言い分は矛盾以外何モノでもないのであり、それら全てを食する事ができる人間は、それだけ業が深く“生物”として許し難い存在である。しかし…食べるという行為は、“生物”である以上避けられない、宿根の業であり、そこを否定する事は、生命維持の否定にも繋がる。つまり、安易な酪農・畜産農を批判する行為は、人間の生命尊厳の“否定”でもある。

 

そう…飽食に慣れた生活感を改め、環境改善を名目にした粗食生活は、個人でやる分には誰も批判する必要はないが、それを他人に押し付けるのは、たとえ自分の体質に合ってるといっても、推奨すべき事案ではない。宗教勧誘でもそうだが、信仰心がない人に無理矢理儀式作法を教えたトコで、宗派の教えを理解するのは不可能に近いし、余計な誤解を招くだけである。

 

宗教関連の話として、精進料理とハラール(イスラム教の戒律に基づいた食事)とは、単に菜食主義というのではなく、体調面や環境の違いで若干の動物性蛋白質を黙認してるトコがある。故に、精進料理でも、魚介類や鶏肉を用いる場合もあるし、ハラールは調理場を清め用の砂を撒いて、そこで捌いた肉類は口にして良いというルールがある。(特に業務用食材取扱店では、ハラール認証の食材として、冷凍食材が置いてある。)つまり、戒律に従った調理方法や、信徒からの供物(托鉢行等で得た食材)に加工肉や魚介の乾物があった場合、“肉食は禁忌”を理由に廃棄するのではなく、参拝者に振舞ったり、普通に食卓に盛って消費することも“修行”として受け止めるのです。ま、サンドイッチマンの漫才のネタにある“カロリーゼロの法則”ですw 言い方を変えれば、“命を己の糧として頂く”以上、信徒や参詣者の思いが詰まったモノは、一つ足りとも無駄にする事なかれ…という、宗教上の根幹でもある“信心”を試す意義として、たまに肉や魚介を食す事も不可欠な行為とされるのです。ここんトコを履き違えるヴィーガンが多い事…

 

 

 

 

以前にも解説したかとは思いますが、農業は宗教上では一番業が深い職種であり、下賎な存在として見なされる理由に、“命を奪う行為”を生業としてる訳であり、しかし、この“不浄な業”無くして食糧を確保する事は不可能という“現実”が常に付き纏う、人間の欲望の根源的な部分での宿業を支え担う立場の存在です。故に、食糧残渣や排泄物を肥料にして土を汚し、そこで穀物や野菜、果物を栽培して、その“命”を奪って糧としてる訳です。これだけでも“不浄な存在”です…畜産農家は更に、食用として、主に草食動物を飼っているから、余計に非難される存在です。しかし…食卓に上る食材は、この“下賎なる輩”の手を介さないと、口にする事も出来ないのです。当然、“完全菜食主義”を謳うヴィーガンであっても、自らの手を汚さないだけで、畜産農家を侮辱してる時点で、話になりません。むしろ、一番“不浄な存在”なのは、この不条理な業の下において、特権階級ぶった態度で批判してる、ヴィーガン自身ではないでしょうか?だから、真っ当な聖職者程、農家や漁業関係者を丁重に敬うのです。日々の生活を支える、重要な職であり、その苦労は計り知れないぐらい、深くて辛い仕事ですから。

“ブラック規則”にある背景と理屈。

学校や職場でよくある、業務や学習に支障のない範囲の部分まで規制する、所謂“ブラック規則”ってヤツ。ぶっちゃっけ、コレを守れたとしても、社会生活上、殆ど無意味であると同時に、学生・生徒の場合は、社会人になった途端に不自由な生活を強いられる(というか、恋愛すらできない)状況に陥るし、真っ当な社会人になったとしても、この規則が原因で精神が病む事も…でも、それを“おかしい”と訴えると、逆に異端児扱いや不当な左遷を受けるケースが後を絶たない。この背景にあるのは、実は日本の社会そのものに蔓延ってる“間違った仲間意識”と、組織を運営するにあたって“単一化”したい思惑が透けて見える訳である。気持ちはわからんでないが、それが結果的に、作業効率の低下や様々な人間関係の歪みに繋がってる事を、誰一人として理解できてないからこそ、こういう“ブラック規則”が社会全般でまかり通る訳です…非常に残念な話ですが。

 

 

 

この背景にあるのは、オンとオフの切り替えの“否定”から始まる訳であり、その理由も、“誰かが見てる”という意識付けの“履き違え”から来るモノで、単一化すると面白くないのに求めるのは、管理がしやすいからという理屈なのです。しかし…“誰”が管理しやすい規定なんでしょう?ここで素直に疑問を抱いたなら、未だ改善の余地があります。つまり、この理屈こそ、“誰の意見”だって事です。

 

戦前までの教育機関では、“男らしさ”と“女らしさ”を強要する規定があり、故に女性の高学歴は、非常に稀であると同時に、一番嫌われる生き様でした。こういうと簡単に“男尊女卑”と思われますが、当時の常識では、女性は常に“家を預かる存在”として扱うのが是であり、縁の下でのサポート役が肝心という概念がありました。特に、家督を継ぐ長子(長男長女)の場合、その役割が明確で、故に戦前の徴兵制度も、家督後継が見込まれる長男や、女系家族に婿入りした男性は、兵役免除の特例がありました。(流石に終戦間際には、そんなのはブッチ無視して、多くの男性が徴兵された訳だが…)この際に、公立学校で男性には丸刈りが、女性はお下げ髪や編み込みが“校則”として設定されてたと推察すると、現行に則さないのに未だにまかり通るのは、ここを疑問視してこなかった教育現場の不寛容さが見え隠れする訳です。また“黒髪指定”も、そこの部分の見直しをしなかった、戦前からの教育者の概念を、今も訳解らずに引き継いだ弊害と言っていいでしょう。

 

今でこそ、LGBTに関する概念が普及し始めてるから、ランドセルの色や制服の選択肢が変わりつつある訳ですが、戦前からの教育方針では、そんな概要は存在してないどころか、完全否定の方向性で、故に女性が男性社会で対等に勝負する事も、その逆で男性が女性中心の職場で活動するのも、社会そのものが“全否定”だった訳であり、故にアパレルや美容業界、水商売やボートレーサー以外では、特にトランスジェンダーは嫌われたのです…ぶっちゃっけ、オイラ自身も一種のトランスジェンダー(幼児期から自分の身体が“女”である事に不満があった)なんでよくわかるんだが、“普通”の人だと、正直キモいんですよ、“肉体が女性(男性)なのに精神が男性(女性)”って感覚や行動が。(見た目じゃなく、存在そのものが)コレを“理由”にして、どんだけ学校でいじめられたやら…

 

話が逸れたんで元に戻すと、この因習を変えたくなかった人が教育現場や政治家に多く存在し、変革を求めても聞く耳を持たない態度が続いたからこそ、それを見てる次世代の人間が、それを“当たり前”として思考停止したまま今日まで続いたから、誰も違和感を持ったとしても“誰かがやるでしょw”で放置した訳です…責任を負いたくないあまりにね。プラス、社会の変革において、分相応の犠牲が付き物で、それを“誰がやる”かで戸惑う訳です。つまり、“変革の生贄”は本来、言い出しっぺが志願してやるモノなんだが、コレを余所に求めるから拗れるんです。様々な犠牲…前例があるからこそ、類似事案に即応できるのであって、それを恐れて尻込みすれば、同じ過ちを繰り返す事になりかねません…今、香港で起きてる問題でも、そもそもは中国の政府批判を排除する手立てとして、犯罪者の身柄引き渡しに関する法改正に反発しての抗議なのに、一部が完全に暴徒化した事で、市民の意見が中国政府寄りになっても、仕方ないところまで発展してしまいました。これでは台湾も、同じ目に遭いかねません。(暴徒の一部に、こういう騒動をわざと起こす工作員がいるからです…世間を欺く為にね。)

 

 

 

 

 

藤田菜七子騎手が、スウェーデンで行われた女性騎手招待レースで総合優勝した件にも、ここでちょっと触れときますが、スウェーデンに限らず、スカンジナビア半島三国では、男女共同参画運動が盛んで、ここを中心に欧州競馬では、女性ホースマン(ん?ちょっと表現がおかしいかなw)の活躍が、非常に盛んになっていて、また、ニュージーランドやオーストラリアでも、女性騎手がGⅠ戦線でも大活躍して、結果を出しています。しかし、競馬サークルでは、世界的に未だに“男性社会”が根強く、女性の活躍に対して、否定的な意見をゴリ押しする人も少なくありません。確かに、馬体重500kg前後のサラブレッド相手に世話する事や、騎乗して操作するのは、かなりの力仕事であり、レースの斤量によっては、体力消耗が激しい競技です。しかし、馬術が盛んな欧米諸国では、女性騎手でも男性以上に荒馬を乗りこなす技量がある人が多く、競馬以外でも馬術(特にクロカンやエンリュランス)でも女性ライダーが優勝する事もあるので、その点では、扱い上“対等”なのです。ここを理解せずに見下してる人は、一度体験乗馬でもいいですから、馬に乗って御して下さい…男性でも一本背負い喰らって半身不随なんて、馬術の世界じゃザラですから。(馬場馬術だけなら、パラリンピックでも種目としてありますから、障害や総合じゃなければバランス感覚の問題ですけど…)

関西(大阪)をバカにする人の心理…

G20サミットの大阪開催に対する、ある意味での罵詈雑言がSNSで散見されるが、最も多いのは、なんで開催を首都圏…特に千葉県や神奈川県でやらなかったのかって話と、そもそもの“大阪に対する価値観”からの齟齬から来てる。ま、敢えて言えば、発言者自身の“社会科の勉強不足”が露呈してるだけの話であり、日程や会場規模、更には警護のしやすさに交通アクセスの良さ等を踏まえれば、東京以外だと関西圏が無難なのは明白であり、加えて現在、東京自体が来年のオリンピック&パラリンピック開催に向けた整備事業でゴタゴタしていて、そこで国際会議やイベントをやる事自体、どんだけのリスク(再開発の遅延や警備上の不具合等)を抱えてるか、想像できない時点で“小学校から社会科学び直せw”なレベルとしか言い様がない。

 

 

 

 

 

 

勿論、その背景には、在京メディアが発信し続けた、“虚構の関西像”ってのが根幹あり、更に“虚構の東京”こそ“本物のニッポン”として紹介し過ぎた側面も見逃してはいけない。海外メディアで日本に精通してる人程、実はこの“虚構”を見破っていて、故に取材でも首都圏を外して地方に行くケースが増えてる訳である。つまり、本来なら諸外国向けに発信してた情報に引っかかってるのは、皮肉にも日本人自身であり、それが1960年代以降、まるで呪いの様に蔓延した結果、多くに若者が東京を目指し、故郷に戻る事すら拒否する事態に陥ってしまってるのである。

 

また、様々な文芸作品(漫画含む)や楽曲でも、関西圏を舞台にした内容の多くが、大体60年代後半〜70年代の大阪…しかも歓楽街周辺(キタ・ミナミ・飛田新地)を舞台に描く事が殆どで、特に決定打になってるのは、はるき悦己のコミック“じゃりン子チエ”のTVアニメ化である。ま、つい最近まで、作品の舞台とも言える西成区では、ある意味でマスコット的存在として扱われてた訳だが、あの作品自体、時代背景が60年代後半の西成区浪速区阿倍野区天王寺区の一部が登場するんで、当時の“大阪の下町”を体感するには面白いけど、そのインパクトが強烈過ぎて、同じ関西人でも、特に西成区に対する誤解と偏見が生じた訳である。敢えて言っときますが、同じ西成区でも、阿倍野区に接してる帝塚山周辺は、関西屈指の高級住宅街…昔からのハイソでセレブなトコっすよ。(住吉大社もほど近い…あそこも、初詣以外に訪れると、とても静かでハイソなトコなんだが)

 

話が逸れたんで元に戻すと、在阪メディアも“東京に喧嘩売る”名目で、あまりにもコテコテなコンテンツばっかり作ったのも原因の一つになってるトコがあり、しかもメインが“純粋な大阪人”ではないのが大きいのである…こういうと、大概の人が頭抱えて黙るんだが、明確に言えば、同じ“関西人”と言えど、“本物の大阪人”がメインを務めてないって事である。“関西のタレント”という名目で紹介される人…特にお笑い芸人の場合、大阪府出身よりも、実は他県民である事が多く、目立つのは京都人や神戸っ子で、純粋な大阪人は、オイラの知る範囲では稀です。局アナに至っては、大阪人はガチで少数派で、大概目立ってるのは他県民です…代表的な人は名を伏せときますが、“生粋の大阪人”からしたら、言葉使いが酷過ぎて、誤解されるのも無理ないかって感じですw

 

 

 

 

つまり、今ほど情報量がなかった時代に、“大阪らしいモノ”を使わないと、情報の差別化ができなかったという背景と、今でも“変わらない風情”を求めるあまりに、大阪に対する固定概念と既成事実が形成されてしまい、ここを改変しようと躍起になっても、それを拒むのです…居心地のいい雑多な、“古き良き大阪”を求めるあまりに、どうしても通天閣大阪城などの、ベタな“大阪のイメージ”を求める訳です。だったら、東京も同じ様に、ベタな風景“だけ”切り取って報じたらいいじゃないですかw そうやっているうちに、なんで息苦しい状況なのかがわかります…“あの頃のままで”と他人に願うから、自分だけ“変革したい”と思っても、周囲がそれを認めない以上、結果的に変な齟齬が因となって紛糾するのです。これが、“大阪dis”の一端と考えていいでしょう。でも…いつの時代でも“あの頃のまま”ではいられないし、否定するだけ無駄です。時間の進行は一方通行である以上、そして、“生きた社会”であり続ける以上、常に変革は続くのであり、それが“成熟”の過程なのです。

猫も杓子も“きよぽん”な話w

カンテレがきよぽんを“神様”として奉り、崇拝(⁈)してるのは理由的にわかるが、FNSの競馬実況アナ全体がそういう傾向になっちゃったのは、カンテレに引っ張られ過ぎというか、競馬実況を志願するアナウンサーが、その理由として“杉本節”に対する憧れを挙げてる事が多い。ま、その元祖といえば、鉄ちゃんだったり、HBK…もとい、草野アナだったりする訳だが…w

 

 

本来ならブロマガ案件なんだが、現在実家で(しかも旧型iMacが故障で買い換え検討中という状況…)、更新作業ができないんで、こっちで解説しとくと、コレは時代の流れ上仕方ない部分であり、いかに地上波においてFNSでの競馬中継が影響を与えたかを思い知らされる話とも言える訳である。つまり、現在のベテラン勢にとって、競馬を知る“ゲートウェイ”がFNSでの競馬中継であり、特に70年代後半から双眼鏡置くまでの30数年間は、正にきよぽんが最前線でメイン実況をやってた時代…その頃に子供だった世代が今の現役世代だから、余計に“生きる伝説”として見られる訳である。

 

もちろん、その背景には、カンテレだったからこそ躍起になって、競馬中継の視聴率を上げようと努力してた訳であり、それ故にフラッグシップとなる存在が必要だったという事情がある。特にアナウンサーの品格に関して、関西弁でガンガン喋くり倒す征平ちゃんの存在が強過ぎて、他地方…特に首都圏出身の男性アナは、関西弁じゃないという理由だけで肩身が狭かった訳で、その“逃げ道”としてスポーツ実況に行かざる得なかった…てのがあった。(一部例外として、お杉の“顔芸”っていう方向もあったけど…)しかし、カンテレのスポーツ実況の範囲には、競馬は避けて通れない。故に必然的に、カンテレのスポアナとして生き残るには、競馬実況が出来てナンボという方程式が出来てしまった訳で、逆に競馬実況できなくてもスポアナとしてやってたのは、梅淳ぐらいと言っていい程w 

 

でも、きよぽんが競馬実況アナとして、今日のように“伝説の存在”として語られる様になったのは、むしろ定年を目前にした時期からであって、それまでは、奈良出身(=関西弁でも吉野方言に近いから、イントネーションが…)である事や、見た目の悪さ等から、どっちかといえば“嫌われキャラ”だった訳であり、故にマニアックな競馬ファン以外、相手にされなかった。その環境が一気に激変するのが、オグリキャップを起因とする“第二次競馬ブーム”である…今の競馬人気は馬主が著名人である事を背景にした部分があって、ある意味で“第四次”と言った方がいいだろう。(第一次はハイセイコー、第三次はディープインパクトが起因と設定した場合の話)

 

それまでにも、“テンポイント贔屓実況”というレッテルが貼られて、そこの部分が取り上げられがちだった訳だが、ここでオグリキャップ見たさにFNSの競馬中継を見た人が、真っ先に“ターフの吟遊詩人”の存在に気付かされた訳である…テンポイント以外でも、GⅠ競走じゃなくても、丁寧に、且つ、映像では描写しきれない情景を、テンポよく、そして的確に実況していく様は、ともすれば関西人好みの“ハデコテ実況”の様に思えても、実際は目の前の現実を刻々と伝えながら、時に勝者を讃え、時に散り逝く者の無念を偲び、そして一つのレースの裏側にある、それぞれの物語を紡ぎ出す技術は、正にスロージャズの如し。それがベースになって、他の実況アナとの差別化が進んだ事で、神格化したと言っても過言ではない。

 

もちろん、カンテレだけが“きよぽん推し”をした訳じゃない…というより、関西よりも首都圏の方がウケが良かったのは、競馬そのものが関西よりも首都圏の方が熱かったからであり、“テンポイント贔屓”というレッテルそのものも、実は報知新聞が首都圏向けに勝手に付けたモノであり、その話がたまたま当人に届いたのが、FNSの合同でゴルフ中継をやる際に、フジテレビのスタッフからというオチがあったりするw それくらい温度差が激しかった訳である。故に、鉄ちゃんが自ら望んでカンテレに入社試験受けに大阪まで出て来たのも、ゆずぽんやコーケンがカンテレを選んだのも、そういう背景があり、更にフジの青嶋アナも、競馬実況を志願した理由もコレである。(ま、青嶋アナの場合は静岡出身なんだが、ギリで東海テレビが受信できたトコだったから、それで競馬実況を見て憧れたと、ラジニケの特番でゲロってましたw)

 

 

 

よくよく考えたら、今のカンテレ競馬班は関東出身の実況アナが占めてる訳だが、その殆どが、きよぽんに対する“憧れ”から導かれて門下生となったと言っても過言ではない訳で、でも、関西の競馬ファンからすると、異様なまでの“きよぽん推し”には辟易してたから、逆に関西出身の実況アナの憧れが薫兄だったり、審ちゃんだったのも、そういうことかも知んないw かくいうオイラも、実況アナとしてのきよぽんはあまり好きじゃないが、マイク離れて奈良弁でワーキャー言ってるきよぽんは好きですよ…奈良県内にいる、普通のおっちゃんとしてならw

公共施設は運営次第⁈

いやはや…先日、とりあえず家での療養という事で、一時退院と相成りまして、とりあえず実家に戻りました。いやね、実は更新が滞ったのは、オイラが入院してた大阪の病院には公共のWiFiがなくて、iPhone8のテザリングでのネットやってたら、パケ死しました…w 義母がたまに入院する奈良の某公立病院は、ガチで無料WiFi完備なのに…

 

 

 

 

今回は、ここから考える“公共事業”にまつわる話…ぶっちゃっけ、年金問題や公団運営が批判され続けた最大要因を推察していこうって訳だ。コレがわかると、一部市民団体の言い分が、いかに“的外れ”なのかもわかるし、何で国や自治体がテーマパーク系レジャー施設運営が下手なのかがよくわかるかと思う。

 

まず、公共の宿という名称で思いつく施設、あなたはいくつ思いつきます?それこそ、昭和末期から平成初期には、そういった施設がいろいろあったんですよw しかも、場所によっては高級ホテル並みの設備なのに、宿泊費がビジホより安い、立地条件最高なトコもあったんですよ、コレが。しかし…バブル崩壊後、多くの施設が経営難や経営母体の“民営化”を理由に、次々と消滅したんです。今、生き残ってる施設の多くは第三セクター方式で、且つ、どっちかといえば交通の便が悪いですw でも、それには分相応の理由があって、更に“不便”を逆手に取ったアクテビティで人気を獲得してるんで、コレは寧ろ“成功事案”であって、決して悲観的観測すべき話ではありません。問題は、いわゆる“昔は良かった”で潰れたトコです。コレはどうしてでしょう?

 

その最大要因は、運営母体からの“損失補填”に問題があったのです。具体例でいえば、グリーンピアとか、サンピアという名称の施設。コレ、実は国民年金や厚生年金の掛け金の一部で運用してたから叩かれてる訳だが、立地条件良好な場所にありながら運営がダメだったのは、それだけじゃないんですよね…つまり、宿泊施設としての設備投資をキチンとやって、尚且つ、“変な利用条件”を付けなければ、“損失補填”として余計な掛け金を失わずに済んだのに、如何にも経済学に疎い役人の運営ですから、“運営母体から支援がある”という甘えから“経営破綻”した訳なんです。だから、施設が丸ごと民間企業に運営移管した途端に、超絶人気テーマパークになったんがUSJって訳であり、アレも開業当初は大阪市の三セクだった事もあって、毎年赤字補填に、市民税が大量に使われた…なんていう噂が流れたぐらい大変だったんです。(グリーンピア三木跡地がネスタリゾート神戸になったのは、そういう事だと考えると、何となく察しがつきますわw)

 

あ、“変な利用条件”に関しての補足をしとくと、かんぽの宿とかメルパルクの場合は、名前で察しついた人ならおわかりかと思うが、郵便局で簡易保険加入してる事が最低条件で、尚且つ利用一週間前までの申し込みが必要…ってのがあったり、件のグリンピアや厚生年金会館も、年金加入者であることと、その登録番号が必要だったりする事、更には申し込みは1ヶ月前までと、民間の宿では絶対にありえない縛りがあって、コレが利便性を削いでしまった訳です…あの、何がやりたいんですか?

 

ちなみに、参考までに天理教の教会や“母屋”と呼ばれる宿坊では、主に訪日外国人向けではありますが、宿泊サイトなどを経由しての予約が可能で、一般観光客でも余程の繁忙期(おぢばかえりとか、毎月26日の月例祭とか…)でなければ、1泊2〜3000円(多分素泊まり)で利用可能だったりしますw(某YouTuberさんからの情報)

 

 

 

USJの話が出たんで、コレも含めた、レジャー施設の運営のヘタレさ加減に関しても…さっきも触れたが、開業当時のUSJと今では、根本的な考え方が全然違います…それは、“税金垂れ流しの職務怠慢”と、本来あるべきテーマパーク運営における“攻めの姿勢”です。JRAの競馬場やWINSの施設の更新でどんどん綺麗になっていってるのも、ココがポイントであって、それに追随する格好で、ネット投票が解禁になって潤沢な資金が回る様になった地方競馬でも、累積赤字の解消に目処がついたトコから、施設の改修工事に着手する動きが出てきてます。つまり、その“収益”を“正しく使う”事に焦点を絞れば、さらなる収益と地域への経済波及効果も期待できるのであって、それを無視して設備投資やインフラ整備を怠れば、結果として“税収による補填”に縋る、一番みっともない財政に堕ちるのです。

 

詳しく、JRAの事案で解説すると、馬券の売上の8割は国庫の歳入として計上されますが、そもそもの分母が大きいんで、下手すると収益は財政危機に苦しむ自治体2〜3ヶ所分の赤字を帳消しできる程と言われる資金があるともされてます。で、元々競馬法に基づき、畜産振興に関する事業に支援を行う財源として国庫に納めてる事もあって、それと合わせれば、日本の畜産農家に対する、ある程度の損失補填(災害や疫病蔓延防止に伴う殺処分等)ができる仕組みがある。しかし、その一方で、開催時に伴う環境破壊(糞尿臭や周辺道路の交通障害等)が看過できない訳で、繁華街にあるWINSはともかく、競馬場や郊外型WINS、トレセン周辺では、周辺住民の生活向上を目的とした道路整備や、最寄りの公共交通機関の整備費を、自治体に代わって賄う事があり、自治体単独で整備した道路よりも、やたらと舗装や街路樹等が整然としてる場合、大概どっかにJRAロゴマークが付いてたりしますw(以前にも観光牧場の件で解説しましたが、“馬いる所にJRAのロゴ有り”な訳で、コレの公共工事版が存在するって訳です。)

 

 

京都精華町にあった“私のしごと館”が経営破綻して閉館したのと、ららぽーと甲子園にある“キッザニア甲子園”が盛況なのは、どんな差があったかといえば、今までの説明から推察していただければ理解できるかと思いますが、いくら“本物志向”でやってても、講師役がウエメセな上に体験後の印象が悪ければ、リピーターが増える事もないし、それ以前に予約方法が煩雑過ぎなのと、開館時間や交通の便が悪過ぎれば、子供はおろか、その親とて連れて行こうと考えませんよ。逆に、キッザニアは民間の施設であり、スポンサー企業から職業体験の番組提供を受けて運営される為、内容が定期的に変更される分、何度来ても、子供にとっては“楽しい体験”になるし、ショッピングモールに併設された施設なので、親である大人も退屈せずに待てる上に、甲子園球場が隣接してる立地条件である時点で、子供も大人も“選択肢”がある訳です。

 

 

 

コレが“攻めの姿勢”と“職務怠慢”の差です。経済における“攻めの姿勢”とは、将来を見越した上での人材育成と環境整備にどれだけ資金をつぎ込み、活用していくかであって、現状に甘んじない態度です。公務員の中でも、役場勤めのごく一部に見受けられるトンチンカンな連中が取る態度の要因は、国や自治体の運営費は税金である以上“安泰”だからです…しかし、税収の使い道に関して、民衆から見て堕落以外何者でもないと判断されたら、他の部署で真面目に職務をこなしてる人まで叩かれた挙句、精神が病んだり過労死したら、それこそ気の毒でしかありません。だからこそ、安易な民間委託とかではなく、国や自治体自身の“意識改革”が必要であり、それに似合う“業務改革”が急務なのです…ただ、これを実行するにあたって、政治家自身の社会科の“勉強不足”が深刻過ぎて、話にならないんですがw